愛されたい症候群

愛されたい愛されたいってみんな言う。










自分を磨き続ける原動力には様々あるが
最終的に行き着くのは、愛されたいから磨き続けるんだ。




男性なら、強くなって高い地位を得て名声と報酬を得る。
そうしてより良い女性に愛されたい。


女性なら、可愛い服装、可愛い仕草、メイクして整形してダイエットして
少しでもイイ女になって、より力の強い男性に愛されたい。




人は、愛されるために行動するし愛されることが生きるための
最終目標なのかもしれない。








けれども最近、若い人を中心に

「愛を感じることができない。」
「自分は愛されていないんじゃないか?」


そんな風な思いが心を掠めて、
常に心がソワソワしてしまう。


じゃあ、その人が天涯孤独かといったらそうではない。
むしろ、客観的には恵まれてた環境にいることだって少なくない。



贅沢を常にしているわけではないけれど
日常を送るには何不自由の無い家庭。

適度に遊んで喋れる気の置けない友達。

フリーでいる期間が一般的な間隔より
短いくらいに恋人だって途切れない。







そんな風に恵まれていそうな彼らは
どうして愛を感じていないのだろうか?




けれども、どうやら、



「愛されていないって感じているわけでもないんだよね」


っていう反応が返ってくることが多いようだ。



それはつまり
両親も友達も恋人も、愛してくれてると思う。
すごく良くしてくれるし、私のことを大事にしてくれるって思う。


愛してくれているとは思うんだけど、なんかその事が
愛されているという感覚に直結するかって言うと、ちょっと違うかなって…。





そんな風なフワフワした答えが返ってくる。











これは結構重要な事を示唆していて

愛されているなんて、形ではわからない。
感じることでしか分かりえない。

愛は考えるものではなく、感じるものだから。






それなのに、愛されている感覚がフワフワしていて確かなものではないって事は
やっぱり、相手からの行為を愛されている、と感じてはいないという事なのだろう。



感じることしか出来ない感覚を
感覚でキャッチできていなければ
それは、愛をキャッチしていなのと同じことなのだ。




それと、もう一つ大事なのは
愛してくれているんだと思うんだけど…
という部分である。


そうなんだよね、なんとなく
これが世間一般で言う愛情表現なのかなぁ
という事は、なんとなーく分かっているんだよね。

だから、きっと愛してくれているんだと思う、という
反応が返ってくる。

じゃあどうして、愛しくれているだろうけど
それを愛だって、堂々と思えないのだろう。


それはつまり、
何が愛なのか、何を持って愛されているのかってのが
本人の意識の中でもわかっていないんだよね、きっと。



愛の形がどんなものなのかという
愛の基本の形の金型が自分の中に身についていない。
だから、愛と呼べそうなものがカラダの中に入ってきても
それが愛なんだって識別することができないのだ。

愛のモデルがないから。





それは愛されたことがないから
愛が何か分からない。

すなわち、愛がどういう形なのかわからないから
これが愛だ!って認識できないでいる。
なんとなく、愛だと思われるような気持でも…。






幼い時に失った愛の形って、
もう取り戻せないの?と言われたそんなことはないだろう。





それには、
愛とは何かを知るために
親ではない誰かに愛される必要がある。




誰かに愛の金型を作ってもらう必要があるのだ。



ただそれは本当に難しいことだ。



愛と言う型を幼い頃に作ってもらってなかったら
愛が入るスペースというか、愛がどんな形なのかを
学ぶのは困難を極める。



歳を重ねれば重ねるほどにだ。



脳科学の分野の話になるのか分からないけれど
人間はある一定の年齢までにカラダの基礎が出来るから
その基礎が固まった後で動かそうとするのは困難を極めるのだという。






脳科学でなくとも、
歳が行かないうちのほうが人格という形が出来上がっていないから
加工修正してあげるのに苦労と痛みが少なくて住むというのは
なんとなく想像できる。













愛されたいと強く願う女性には
頑張り屋さんが多いように思う。



何かを達成している自分、
何かを努力している自分




そういう自分を止めてしまったら、誰からも愛されないのではないか
結果と成果が出ているからこそ、
なんとか認めてもらえているだけなのではないか?




このウラに隠されているのは、
何も成果を出せないダメであってもイイ子でもない自分でも
愛して欲しい
ダメな自分でも愛されたい!という
痛烈な気持ちがあるように思う。




それは長所があるから存在を許されるのでは無く
短所がある自分でも認めてもらえるという
安心感を得ることが、幼少期からなかったから。




それは結局は、
「自分は世界から受け容れられている」
という漠然とした安心感得ることが出来なかった為に
幼少期から抱える精神的飢餓が大きく関連しているのだと思う。




あるがままの
良い子でない自分、例えばワガママをいったり
泣いたり、お母さんに構って欲しいからこそ怒らせるような事を
してしまったり、そういう手を煩わすような感情を
表に出しても、受け止めてもらえる、イイ子じゃない自分でも
しっかり受け止めてもらえるんだ!という安心して
相手に寄りかかれる経験が無いと
いい子の自分しか評価されないんだって思ってしまう。





十分な依存を経験したことがないと、
友達に対する「安心したよい依存」ができません。



親に自分のわがままをぶつけるという依存をして、安心や安全、気持ちよかったという気持ちを味わっていない場合は、
相手に依存することは許されることで
気持ちの良い事なんだという体験が出来ていないから、
友達に依存することもできない。





かけがえのない両親から依存という自分を認めてもらえていないのに、
他人ばかりのこの世界は、
自分を受け容れて認めてくれるわけがないんだ!という事になる。









ただ、女性だって本当は知っているんだ。
どんなにいい子を演じて、どんなにいい女の条件を満たしている風に演じて、
どんなにダイエットしてスリムになっても、メイクしても、整形をしても
露出した服着て街を歩いても、
そういう外面が輝いている自分を認めてもらったところで
空しさが溢れてくるだけだってことを。





痩せていない自分、
露出という女性の性を強調しなければいけない自分
そんなニセモノの自分を愛してもらったって、何も満足しないって。


望みどおり、外見に男性がひっかかっているというのに…



つまり、愛されると思われる自分を演じていくら
愛されるキャラを演じている自分が愛されようとも全く満たされることはないのだ。


じゃあどうするかっていうと、短所も含めて自然体の自分を愛してくれる人を探すだけ。
愛されるための癖が身についてしまっていてはなかなか抜けないのかもしれないけれど
愛されるであろう、一般的な女性像に流されないで、自分らしく居ること。

(一般像になりたくて流されて、流されたことで自分にフィットするなら
 その像を自分にとりこめばいいけど、違和感があるのに、愛されそうな キャラを演じ続けるのは間違っている。
 自然体じゃない自分を演じても疲れるだけだし
 演じている自分が愛されても満足感なんか得られないから)