対人関係療法で治す「気分変調性障害」水島広子 創元社


対人関係療法でなおす 気分変調性障害

対人関係療法でなおす 気分変調性障害

●はじめにーー本書を読んで頂きたいのは、こんな方です


・自分は人間としてどこか欠けていると思う

・ほかの人は苦しいことにもしっかりと耐えているのに、自分は弱い人間だと思う

・自分は何をやってもうまくいかない

・自分は何か、なすべき努力を怠っているような気がする

・人が「本当の自分」を知ってしまったら、きっと嫌いになるだろう

・「○○したい」というのは、わがままなことだと思う

・自分が何かを言って波風を立てるくらいなら、我慢したほうがずっとましだ

・自分の人生がうまくいかないのは、自分が今までちゃんと生きてこなかったからだ

・人生は苦しい試練の連続であり、それを楽しめるとはとても思えない

・これから先の人生に希望があるとは思えない



もしも、あなたが殆ど毎日、上に挙げたように感じているのであれば
本書をぜひ読んでみてください、
本書のテーマである「気分変調性障害」である可能性が高いからです。

そんなふうに感じる多くの方が「気分変調性障害」などという病名を
聴いたことがないかもしれませんし、今まで一度も治療を受けたことがないかもしれません。


















■気分変調性障害の人の生き方


治療を受けていない気分変調性障害の人は
自分の感じ方が病気の症状だとは思っておらず
「人間としての欠陥」に基づくものだと思っています。
そして、その「欠陥」を、とても人から受け入れられない、恥ずかしいものだと思うため
隠そうとして生きていく事になります。

それは本当に苦しい生き方です。

そもそもうつ病でエネルギーが低下しているのに
その限られたエネルギーをすべて使って「ふつう」に見せようと努力するのです。
一般には勤勉な働き者になります。
自分には価値がないと思っているので、
それを重労働でカバーしようとするのです。

自分の駄目さを見破られないように、自分のだめさのために
人に迷惑をかけないように、と頑張ってしまうのです。

また、たとえば社会に出るとき、環境が変わるときなどには
極度に圧倒されて感じるのも気分変調障害の一つの特徴です。

「こんなにだめな自分が、そんなに多くの能力を要求されるところで
 やっていけるわけがない」と感じるのです。

同時に「誰もが普通に乗り越えていることに圧倒されてしまう自分は本当に駄目な人間だ」
とも感じ、さらに努力することによってカバーしようとするのです

客観的に見れば、気分変調性障害の人は実際には「できがよい」ことも
少なくありません。
もちろん、うつ病の症状でエネルギーが全般に低下していますので
本人の本来のデキよりは悪いのかもしれませんが
客観的には大問題になるようなことはまずないもので
(気分変調性障害に大うつ病が上乗せされると、仕事の生産性などはぐっと落ちて
 他人の気づくところとなりますが)
一般には「まじめな人」「頼りになる人」という評価を
得ていることが多いのです。

ところが、気分変調性障害の人に、学歴や職歴のよさを指摘して
「あなたは本当は出来る人なのです」と言ったとしても、
それで自分についての感じ方が変わるわけではありません。

多くの人が、自分自身の社会的な評価を「分不相応」と感じていて
「いつか、こんな評価に値しない人間だという事を見破られるに違いない」
と恐れているのです。
そして、そう見破られないようにと、さらに必死で努力をしていくことになります。

健康な人であれば評価されればそれだけ自己評価も高まるのでしょうが
気分変調性障害の人は、評価されることでますますプレッシャーが強まる傾向にあるのです。

また、健康な人であれば、ある程度なにかが達成されると「今まで頑張ったから、少しはゆっくりしよう」
などと考えることもできますが、気分変調性障害の人は
その達成を「たまたま」と感じ、調子に乗って実力を見破られないようにと
さらに努力を積み重ねたりすることになります。

そのように、常に無理をしているのですが
(そして、気分変調性障害の人はそれを「無理している」と感じるよりも
 「このくらいのことはやって当たり前」と感じているものですが)
それが限界を超えると、大うつ病が上乗せされることになります。

ここまで読んで、「自分の場合はできが悪いから、該当しない」と思った方は
それこそが気分変調性障害特有の感じ方である可能性を頭に置いておいて下さい。

気分変調性障害になると、実際よりも自分を低く評価するものだからです。
また、客観的な評価がどうであれ、「他者による評価よりも自己評価の方が低い」
ということは、あらゆる気分変調性障害の方について言えると思います。

なお、気分変調性障害の人でも、大うつ病が上乗せされれば
社会的な機能は低下します。

日常的には何とかやっていても、何らかの失敗や異常事態に見舞われると
うまく対応できなくてなってしまうこともあります。


「駄目な自分」を隠そうとして必死にやっている人は
何かうまくいかないことがあると「やっぱり自分は何をやっても駄目なのだ」
と絶望的に受け止めたり、「だめな自分が露見してしまう」と
パニックになったりしてしまいますので、
健康な人よりもはるかに、大きなストレスを受けることになります。

「単なる運の悪さ」「誰にでもあること」などととらえることは
まず不可能で、すべてを自分の「人間としての欠陥」に結び付けてしまうのです。

対人関係も苦手で、親しい人がいないケースも少なくありません。

何と言っても、自分には人間としての欠陥があると思っているのですから
親しい自己開示が出来ません。
特に、不満など自分の中のネガティブな気持ちを打ち明けることは不可能に近いものです。

そんな気持ちを抱く自分を「未熟」と感じますので
問題のなさそうな顔をして隠します。
そして、本当の自分を知ったら人は自分を嫌いになるだろうと信じています。


さらに後述するような対人関係の特徴的なパターンもあり、
事実上、人との関係の中で満足や安心を経験できないような構造に陥っています。

ですから、気分変調性障害の人は、全般に対人関係を避け、引きこもる傾向にあります。
そして、若くして発症するため、対人関係の絶対量が少なくなってしまいます。
すると、対人関係の試行錯誤をする機会も奪われてしまいますので
さらに対人関係能力が低下する、
という悪循環に陥ってしまうのです。

本人が「自分には対人関係の力が無い」と思い込んでいるのは
単に、気分変調性障害という病気の結果として対人関係の力を磨く場が
少なかったと言うことなのです。

これは、人間的な欠陥ではなく、今後、そのような機会を作っていくことによって
取り返していける性質のものです。

気分変調性障害の人は、職場では普通に人とやり取りしているように見えることも
少なくありません(明るく元気に見える人すらいます)。
仕事では役割が明らかなので、まだ何とか「要求されるであろうやりとり」が
できるのです。
自分の意見を言ったり、自分の悩みを相談したり、という人間としてのコミュニケーションをしているわけではなく
単に、「この立場だったら、こんなことを言っておけば大丈夫だろう」と
思うようなことを言っているに過ぎず、仕事上の一つの課題を何とかこなしているという感覚です。

対人関係療法で治す「気分変調性障害」水島広子 創元社

毒になる親 スーザンフォワード 毎日新聞社

毒になる姑

毒になる姑

■必要なものを与えられないために受ける傷

親が子どもに暴力を振るったり、執拗にひどい言葉で傷つけたのであれば、その親が「毒になる親」であることは容易に見分けが付く。
だが、「親の義務を果たさない親」の場合には、主観的な要素もあるうえ、それがどの程度のことなのかという問題もあって、
はっきり見分けをつけることが難しい。

子どもが親から受けるダメージが、親が何かひどいことを”した”ことによってではなく、
何かを”しなかった”ことによって与えられた場合、その子どもが大人になってから自分の人生に起きる問題と親との関連性を見抜くことは非常に難しくなる。

また、そういう親を持った子どもは、もともと自分の抱える問題と親との関連性を否定する傾向が特に強いので、その作業をいっそう難しくする。

問題を複雑にしている要因のひとつに、この種の親の多くは自分が抱える問題のためにすでに救いようのない状態にあるため、
他人がそれを見ると哀れを感じてしまうということがある。

これは、その子どもとなればなおさらで、親の救いようのなさ、あるいは無責任さをみると、子どもはつい弁護したくなるのである。
それは犯罪者をかばって被害者が謝っているようなものである。

そういう子どもが音になると、よく「親は悪意があってそういうことをしたわけじゃないんです」「彼らなりにできるかぎりのことはしたんです」
といって親を弁護するが、そのような弁護は、親が責任を果たさなかったという事実をあやふやにしてしまう。

その子どもが健康な心の発達ができずに苦しんだのは、ほかならぬ親のせいだったのです。


自分にはどうして楽しい子ども時代がなかったのか、と考えてみることからはじめるとよい。
そして負わなくていい責任を負わされていることによって、自分はどれほどのエネルギーを消耗してきたかと言う事実を受け入れると良い。

このことが理解できれば、あなたは生まれてはじめて、もう自分にはないと思っていたエネルギーがわき怒ってくるのを感じるだろう。

それは、これまでの人生の大部分において親のために費やしてきたエネルギーであり、本来なら自分をもっと愛し、自分に対してもっと責任が取れるようになるために
使うことができるエネルギーなのである。




■「自分が何か悪いことをしたのだ」と感じる子ども

多くの人にとっては信じがたいことかもしれませんが、
言葉の暴力で痛めつけられた子どもと同様、肉体的暴力で痛めつけられた子どももまた、
親がそのようにするのは自分が何かいけないことをしたからなのだろうと感じている。

こうして、自分を責める性格はやはり、幼い頃にその種を植え付けられてしまうわけだ。

小さな子どもにとって「親が間違っていて自分は間違っていない」と考えるのはとても難しいことだ。
そこで、子どもは親の2つの嘘を信じることになる。

ひとつは、「自分は問題のある悪い子だ」ということ、
そしてもうひとつは「親がぶったのはそのためであり、親のほうに問題があったわけではない」ということである。


この二つの嘘は、親から暴力を振るわれて育った子どもの多くが、
成人後もなかなか消すことの出来ない意識となって心の中に残ることになる。


こうしてその子どもはなかなか人の愛情を信じることが出来ず、また「自分は悪い子」という自己嫌悪が消えない。
そして大人になっても「人間関係がいつもうまくいかない」、「自分に確信が持てない」「自分は駄目な人間」、「不安や恐れ強い」「行動力がない」「特に理由がないのにいつも腹が立っているような気分がする」「自分は幸せにはなれないに違いないと思う」などの問題を抱えるようになる。


子どもが成長して身体が大きくなってくるに従い、
いつかは親の暴力もやむときが来る。

だが、精神的な虐待は大人になってもなくなることはない。

ただし、大人になってからのそれは、自分で自分を痛めつけるようになっている、という点が違っている。

(毒になる親 スーザンフォワード 毎日新聞社

「かわいそうな母」のようにはなりたくない娘たち

当然だけど母は父のことが嫌いであたしが17くらいの時に母が「結婚して一緒に住んだ日に知らない女が押しかけてきた時から25年間ずっと好きじゃない」と言っていたのででも父さんとじゃなかったらあたしとも会えんかったよ?とフォローしたらそんなに会いたくなかったと言われた過去あります




母を反面教師に浮気もの男を愛すようになる娘


上記はある20代後半女性の呟き


どうやら、「浮気する父親」と「それに耐え続ける母親」を観て育った娘は浮気をする父親を嫌いにならないで母親を嫌いになるっぽい。
浮気という社会的に許されない行為を行った父よりも「父が嫌いでも分かれられない惨めな母親のようにはなりたくない」という心理が働いているのかもしれない。














■母は好き。だけどそうなりたくない



社会はまだまだ女性に「選ばれる性」であることを要求しています。

たとえば、専業主婦が夫からの暴力に苦しみ離婚しようと思っても
夫が稼いだものは基本的に夫の財産になっていますから、女性は安定した生活に
独り立ちすることが難しい。

このようなことを指摘すると
「それは極端な例だ。普通の女性は結婚して守られるものだ。 
 たまたま運悪く変な人と結婚してしまった女性を引き合いに出してはいけない」
と言われることもあります。

私は、この一言こそ問題が凝縮されているように思います。
誰と結婚するかによって一生が左右されてしまう、これも女性の「選ばれる性」ゆえでしょう。

これは決して昔の話ではありません。
今でも多くの女性が「たまたま運悪く変な人と結婚してしまったために」
苦しんでいます。









そして、そんな両親のもとで育つ子どもが誰よりも苦しんでいます。

たとえば、夫婦仲が悪いのに仕事を持っていないので離婚できない、
あるいは「離婚すると世間体が悪い」から離婚できない、という夫婦の下に
育つ子どもは、父は母に全く愛情が無い、暴力すら振るう、でも、離婚もしない、
という状況にずっとさらされています。

このような家庭に育った娘は、母親に同情しながらも
母親を軽蔑します。


2章で紹介した過食症の春香さんもこのタイプです。
両親の仲が悪く、父は酒に酔うとよく
母に暴力を振るいます。

春香さんのことは、父親に従順なこときにはほめてくれ、
「母親みたいなくだらない女になるな」などと言います。

春香さんは基本的には母親に同情的で
「親父なんて家に帰ってこなくて良い」と言っています。

自分勝手に母親の事をこきおろし、酔っ払って大声を出す下品な
父親が大嫌いなのですが、だからと言って、
母親を全面的に肯定することも出来ません。

「離婚すればいいのに」と言っても、
「あなたたちがいるから」「世間体があるから」「離婚したら食べていけないから」
などと良いわけをしては離婚しようとせず、
不幸なため息ばかりついている母親は、とても尊敬できないのです。

自分たちさえ生まれていなければ母親はとっくに父親の元を去ることが
できていたでしょうから、「私たちが母の人生を奪ってしまった」という罪悪感を
強く持っています。

母親を今のような「情けない」存在にしてしまったのはほかならぬ自分なのだ…
と考えると、さっさと母親を見捨てて家を出ようという気にもなれないのです。


前に私が摂食障害の患者さんを対象に行った調査では
「子どもの頃両親が仲が悪かった 」と答えた摂食障害患者の女性は
「父親よりも母親の方が好きだった」とした人が圧倒的に多い。

その一方で、
「母親のようにだけはなりたくない」と答えていました。

夫に愛されない女性、それでも離婚できずに夫にしがみつくしかない母親は
1人の女性としてみると情けない、目標とできない、
ということなのです。

このような家庭に育った娘たちは、女性として見本にすべきモデルが
わからなくなります。

母親のように男性に依存した存在にはなりたくない、
自分自身のキャリアをしっかりもちたい、と思う一方で
母親のように男性に捨てられたくない、
男性に愛され続ける女性でいたい、
と思うわけです。


人と人との親密さを外的条件からしか考えることが
できないため、やせて完璧な外見を手にすれば全てが解決するのではないかと
思ったり、誰にも「ノー」と言えないかったり自分の身体の不調を無視しながらも
相手のニーズに応えようとする「スーパーウーマン症候群」になって、
自分の限界を超えてしまい、病気に繋がっていくことにもなります。








■「最高の離婚 第5回」


真木の手を取る綾野。
「アカリさんと結婚したい。これからアカリさんとずっと一緒にいたいと思ってる。」
「・・・・・・」
「時々会ってる女の人がいた。その人に別れ話して紅茶かけられた。
だけどもうそれは終わりで、俺は変わるし変わったし・・・」
ジャストミート!
真木の右手が一閃。
綾野の左頬に張り手直撃。
「ごめん・・・」
力なく詫びる綾野。
婚姻届引ったくって破ろうとする真木。
それを阻止しようとする綾野。
揉み合いになる。
婚姻届は綾野が確保し、
両者、離れて睨み合い。

「結婚しよう!」
「・・・・・・」
「結婚しよう! 結婚して幸せに・・・」
「・・・・・・」

ここは前回の瑛太の「子どもを作ろう!」と同程度の間抜け発言やね。
男はいつも女のメッセージを読み間違える。
そして間違った提案をする。

それはまーともかくとして、
こっからがまた真木よう子の長台詞ですな。

「もう・・・駄目だべなあ。」
「・・・・・・」
「もう駄目。」
「ごめん・・・」
「違う。違うの。私が悪いの。」
「アカリは何も・・・」
「嫌なの!・・・嫌なの!」
「・・・・・・」
「私、こうじゃないの。こういうんじゃない。
リョウさんが知ってる私と違うの。あんたが思ってんのと違う。」
「・・・・・・」
「リョウさん、私が何も気にばしないと思ってた?」
「・・・・・・」
「何も知らないで寝てると思ってた?」
「・・・・・・」
「聞いたこともない? 男が外で他の女ば抱いてる間、女はちゃんと起きてるの。
ゴミ箱のレシートば確かめたり、メールば見たり、洗濯物の匂いば嗅いだりしてる。
女は何も聞かねえ。」
「・・・・・・」
「香水の匂いばつけた男に、近所の奥さんの話ばする。
靴下の裏さ髪の毛ばつけた男に、子どもの学校の話ばする。
男ば嫌がんのわかってる。でも女は止めらんね。
そったら女、嫌だ。
だから私は、ずっと我慢してた。見ないようにしてた。
でも違うの。
ほんとはずっと、ほんとはずっと、あんたが外で他の女ば抱いてる間、
あんたが他の女の脚ば開いてるのを思い浮かべて、あんたの腰さ女の手が回るのを思い浮かべて、
悔しくて恨んでた。罵ってた。
お願いだから、お願いだからもう許してって泣いてた。お母さんみたく。」
「・・・・・・」
「私が学校三年生の時、お母さん私ば連れて、嫌がる私の手引いて、お父さんさ会いに行ったの。
お父さん、知らねえ女の人の膝の上で寝てた。
帰り道、お母さんば私抱きしめて涙ば流して、裏切られたとか騙されたとか言って泣いた。
あの男はこのごろ私に触りもしねえのか。
私の結婚は失敗だったとか不遇だとか、そう言って泣いた。
私それば聞きながら気持ち悪いって思ってた。
何かお母さんのことば惨めな人だと思った。
嫌だった。」
「・・・・・・」
「お父さんのことは少しも嫌いにならなかった。
泣くお母さんのことば嫌いになった。
だから私も、あんたのこと嫌いになる代わりに、自分のことば嫌いになるんだと思う。」
「・・・・・・・」
「ほんとの私はお母さんと同じ人間だから、
嫉妬深くて感情的で、夫ば憎みながらなじりながら、醜くなるんだべなあ。
この男は他の女ば抱いた、あんたの顔を見るたびにそう思ってあんたを許さねえ。
そばにいながら恨んで、同じ家さ住んで、憎んで、生きてく。
私あの女とおんなじ女さなるべ。・・・なるべ。・・・なるの。」
http://blog.livedoor.jp/wazawaza5963/archives/1885557.html

男にとっての時間、女にとっての時間〜メスとしてのピークをどう生きるか〜




◇男女で”時間”の概念は違うって知ってました?




「泣いていても笑っていても平等に時は流れ」
「人間は生まれながらに不平等。しかし与えられた時間だけは平等に24時間なのだ」


という時間平等説。



たしかに、次官だけは誰にも有利にはならない。
ただ、生物としての男女を考えてみたときに、時間には不平等さもある。

このことを男女がお互いに理解しあわないと特に20代の男女同士のカップルは大変なことになる。




女性にとっての10代20代は、男性にとっての10代20代とは全然意味合いが違う。
男は人間としての男性と動物としてのオスは死ぬまで続いていく。

しかし、女性は人間としての女性と動物の雌としての存在では、かなりの差がある。








女性だって年齢を重ねるごとに人間としての味はましていくんだけど、悲しいことに、メスとしての市場価値は、20歳前後をピークに急降下していく。
その20歳までにいかに良い男性とめぐり合って、精子精子を育てていく優秀なオスをゲットするか。


ここに、女性とメスの難しさがある。



男性は20代になって収入を得られるようになって「さあ、これからが人生だ」と思うかもしれない。
しかし女性にとっての20代は、「メスとしての市場価値の最後の砦」なのであって、ここで結果を出せなければ、メスとしてかなり不利な状況に追い込まれるのである。


男には推すとしての寿命は命の寿命と変わらない。
(40台を過ぎた精子からは自閉症児が生まれやすいみたいだけど)

だから、男は女性の時間に注意を払えない(自分の感覚を通してしか世界を観れないのが人間)




男性と同じ歩幅で人生が進んでいくと思ったら大間違い。


あっという間にメスとしてのピークは過ぎ去っていく。
しかもそれがピークだとも知らずに過ごした場合、30台以降の自分の市場価値の下落に愕然とすることになるだろう











男の夏と秋は長いから20代のヘマは挽回できる。けど、女性の春と夏は鮮やかで滑らかだけど、男性に比べるとすぐに終わってしまう。女性の秋は夏の延長線上にあるとは限らない。


このへんの男女の時間に対する感覚の違いみたいなものを理解しあえないことが悲劇の始まりのような気がしている。


男性は自己実現としての自分と父親としての自分とは、両立しやすいけど、女性が自己実現と母親としての自分を確保するためには、それなりの戦略が必要なんじゃないかと、不妊治療のテレビを見ておもった。


自己実現の自分」と「母体としての自分」はかなりの確率で反比例していくものだから。









20代の女性が妻子持ちの男性と不倫関係にあるのは大いに結構なのだけど、
そういう関係を持っている男性も女性も「女性にとって20代とはどういう意味を持つのか?」ということをしっかりと認識して、後悔のないメスとしての生き方の選択して欲しいと思う。


男性は自分にとって20代など通過点でしかないから、女性の20代の重要さに気づけない。人間は自分を通してしか世界を見れないのだから。
だとすると、女性側がが自分にとって20代とはどれだけ大事な時期なのかをしっかりと認識し、出産をするしないに関わらず。
「メスとしてのピークをどう使うのか」ということをしっかり考えて言ってほしい。

マツコさんもいっていたけれども、どれだけ科学が発達しても女性の妊娠適齢期は変わらないのだから。









結婚したいのか、子どもが欲しいのか、お母さんになりたいのか、結婚式が挙げたいのか、よくわからないまま幸せに裏切られる人が居るので、とりあえずシングルに不利な税制と社会風潮を改善すべきだと思った

悲しみ欠乏症候群




■自己満足のために泣く。他人の痛みに共感しているわけじゃない


いずれにしても、
彼らの「涙」は人間的な成長に繋がるような深いものではなく
あくまで自分がすっきりするための”排泄物”であり
「私っていい人」と自己満足に浸るための手立てにしか過ぎない。

(いまどきの「常識」 香山リカ 岩波新書






















□総論






大した努力をしていないのに
「どんなに強く願っても無理」だと思う。



大して行動に移していないのに
「追いかけても追いかけても届かない」って思う。


会いに行ける距離なのに
「会えない」と思い込む。




思いが叶わない=悲しい




悲しい状況を自ら演出しているのではないだろうか。
















◇悲しみを取り込みたい現代人






西野カナの印象的な歌詞



会いたくて会いたくて震える

追いかけても追いかけても届かない

たとえ、どんなにどんなに強く願ったってもう戻れないけれど

会えない時間にも愛しすぎて








■携帯世代のカリスマは喪失感を与えてくれる



なんかこう、西野さんがカリスマみたいな言われ方をするのって、
”悲しみたい人”が多い(特に携帯世代)に多いから何じゃないかと思えちゃうんですよね。



なんというか、喪失感?を味わいたい人が多いのかなと。




失恋だったり叶わない思いだったりっていう喪失感を
自ら演出して悲劇のヒロイン的な状況に酔って悦に浸ったりたいっていう
”悲観願望”みたいなものが蔓延しているような気がする。










■積極的に悲しみに飛び込む人々









例えば、
大した努力をしていないのに
「どんなに強く願っても無理」だと思ったり、
大して行動に移していないのに
「追いかけても追いかけても届かない」って思ったり、
会いに行ける距離であっても会えないと
思い込んだり。




まぁ挫折の機会を得にくい現代社会においては
自分だけが苦しい思いをしているという仮想的有能感
生まれやすいって言う状況も加味しているのかもしれないけれど
なんというか、


『積極的に自分を悲しみの状況に追い込むことで
 悦に浸たろうとしている』



ような気がしてならない。









■傷つかないと自分を大事に出来ない時代







そして、悲しみを感じている自分を
自分で大切にしてあげたい、というか。


逆に言えば、条件を付けなければ
自分を大事に出来ない時代であるとも言えるかもしれないけれど。





悲しみを感じれる自分は嬉しいし、
悲しんでいる自分はケアするに値する自分だから
大事にしてあげられるし、もしかしたら、周りの人にも大事にしてもらえるかもしれないし、
同じように悲しんでる(状態の自分に酔っている)友人が居たら、悲しみという気持ちで
つながることが出来るかもしれない。




無痛文明社会の副作用かもしれない。
悲しみこそ生きている感覚というか…


システムが出来上がった居る社会においては
痛みを回避して生きることが可能。
あったかい世界に慣れすぎて、感覚が麻痺している。
だから、痛みを自らに与えることで、生きている実感を感じようとしている。


その辺の、「喪失感」の共感に対するマーケティング
西野さんは抜群にうまいなぁと思う。










◇「友情」「絆」のという外見を求める。中身は興味ない





■薄っぺら委友情しか結べないからこそ友情が重要視される






それに、女同士の付き合い方の暗黙の了解を
極めて肯定的に歌詞に織り交ぜて、
全てを共有しあう、という女性ならではの友情のスタイルは
素晴らしいんだ!という事を歌い上げている点も、
人間関係が薄っぺらくなっている今だからこそ、
ウケているのかもしれない。




これも、友情で相手とつながりたいけれど、うまくできないという「喪失感」を
上手に演出していると言えると思うけど。

だって、本当の意味での仲良くなるための行動なんか取れないんだから。










■寂しいけど人間関係の摩擦は面倒





仲良くなりたいなぁっていう思いは持っていても、
誰もそれを実行には移さない。”適切な距離”を保つことしかできない日常。


だからこそ、友情は素晴らしいものだということを歌っている場所に
共感している人たち同士で、友情を求めているゴッコに興じているわけだ。



誰とも心からの繋がりを得られないってわかっているからこそ
つながりたいという気持ちだけが一人歩きしていて、
そのつながりたいという気持ちだけに共感しあって、
実際には個人的な結びつきは築けない。






■他人と”人間同士”で繋がれない → 宗教の隆盛






人との摩擦が怖い。だからこそ、結びつきたいという「思想」に
共感して生きていたい。


恐らく、これからは宗教の時代なんじゃないか?
モノを消費するのも飽きた、人とつながるのも怖い、
だとしたら、実体ないもの、つまり、思想妄想みたいな場所に寄り添って
その思想を通じて社会とつながりたいっていう思いが。


AKBも嵐も似たようなもので、
現代人が個人的な人間同士での繋がりを怖がっているからこそ、
アイドルという媒体を通して誰かと繋がっている自分を確かめようとしているのではないか。
本来的な意味での人間同士の繋がりじゃないとしても、それなりの効果はあるから。




個人的な情報や感情の往復がなくても
嵐やAKBが好き、という集合体の一員になれるから。


他人と付き合うって事は
相手の短所も受け入れていかないといけない。
それが面倒。だから、適度な付き合いでいい。


近くに居る人間と、直接的に結びつくことが困難だからこそ
大きな場所に属している自分を感じることで、
なんとか孤独である自分から目をそらすことができる。

文句を言える環境



受け皿が出来ると、訴えは増える



























発言できる場所、受けてくれる窓口があれば、訴えが増えるのは
虐待やDV、セクハラパワハラうつ病などをみれば分かる。



行政や3セクが相談窓口の門戸を開くことに比例して
虐待やDV、セクハラで困っていると訴える人は増えた。



うつ病も、精神科や心療内科の数が増えるほど、
不調を訴える人が増えた。












こうした訴えが増加しているのは、
被害にあったり問題を抱えている人が増えたからなのだろうか。




もちろん、誰もが不満を抱えている社会では
問題の数そのものが増えているのは間違いないだろうが、
じゃあ昔は、そういうもの今の水準より被害の実数が低かったのかと言えば、
必ずしもそうとはいえないだろう。

















DVを受けたり虐待を受けているであろう子どもをみかけても、
”どこに相談すればいいのだろう…”という事が分からずに、
黙認したり疑問に思っても飲み込んできた人たちがたくさんいるだろう。


会社でのセクハラだって、
きっと訴える場所が無くて泣き寝入りしてきた女性が
たくさんいるだろう。









だから、被害の実数としてはそんなに変わらないはず。
窓口と言う受け皿ができたから、訴える人が多くなる。
訴えによって被害が顕在化してくるから、
「今、虐待やセクハラが増えています!」みたいな、
間違った情報が発信されてしまう。







増えているんじゃなくて、知られて無かっただけ。
誰にも知られないところで被害にあって苦しんだ人たちが沢山いるのだ。
















アイドルの”本音”だって、
ちょっと前までは発言されることはなかった。
文句を言っていることさえも、ファンに伝わることは無かった。




けれども今はソーシャルツールによって、
いとも簡単に自分を表現できてしまう。




ブログやSNSという”受け皿”が出てきたからこそ、
昔のアイドルたちだったら、関係者や近しい人以外には
言わなかった本音を、今のアイドルたちも平気で表現する。



しかも、ファンに向けてダイレクトに改善を要求する。



まさに、人は訴えや意見を受け容れてくれる受け皿が出来ると、
自分の訴えを起そうとする確率が高くなるのだろう。



結果と言うか伝わるかどうかということよりも、
とりあえず自分の訴えをどこかに表現したいと言う欲求は
人間として自然なことなのかもしれない。









☆☆









(引用開始)







大人は冗談だと思って言ったことも、
どう解釈して良いのか?わからないことも多いと思います」





「握手会で大切なのは、どうしたらメンバーから
認知を貰えるかではありません。
何を伝えたらメンバーが笑顔になってくれるか?が一番大切なのです」としている。





余り呼ばれたくないあだ名を100回以上言われたといい、
「嫌がらせバンザーイ」とブログに投稿。





4日のflowerソロイベの握手会であっちゃんに
『イケパラ大コケしたね』と言った奴がいたらしい」





 「アイドルだけど人間だから。何でも有りな訳じゃないよ?
何でも笑顔で許せる訳じゃないよ?人と人の交流は気持ちだよね?
それをもう一回考えて欲しい




(引用終了)










AKB48の皆様が
握手会で、不快な思いをしているとの訴えを
ブログで書いているらしい。




アイドルに求められるものが
虚像から実像に変わった今では
”芸能人”というイメージからを大切にした発言よりも、
一人の人間として率直な感想だったり感情だったりを表現することが
求められているのかもしれない。



まさに「会いに行けるアイドル」として、
ファンとの率直な対話や意見の交換を求めるのは
まさに時代の要請なのかもしれない。



ただ、前提条件が少しズレているというか、
ちょっと世界が暖かい場所だと思いすぎている面があるように思える。










アイドルや芸能人に限らず、応援してくれる人と同じくらいに
アンチに思っていたり、活躍を良くないものと思っている人だって
残念だけど社会には存在する。



「いつも応援しています!頑張ってください!!」


と、自分の率直な思いを伝える為に握手会に参加する人がいるのならば


「お前らムカつく」



みたいな(気分を悪くすると分かっていても)
自分の感情に正直な感想をぶつけられることくらい、
覚悟しておいて然るべきなのではないだろうか










凄まじい応援者の数と温かいファンを
血ドロを吐く思いをして必死に獲得してきた、という苦労話は
もはや有名な話なのだろうが、それでも、
私達に会いたい人の目的は、
ポジティブなメッセージを届けてくれるだろう!という
ヌルい考えが蔓延しているような気がシテならない。





成功者を妬みヒガみ陥れようとする輩は、
どこの世界にも必ずいるものであって、
そのことについて、ファンにも分かるような形で不満を
ブチまけているのは、なんだか違和感がある。




これも時代の流れなのだろうか。





突き詰めればアイドルの役割は、
どれだけ批判されようと嫌な気分になろうとも、
自分たちの商品を購入して会うための権利を持った人には
笑顔で接することが求められるのではないだろうか。




それを、プロと呼ぶのではないだろうか。




”会いに行ける”というのは、「プロじゃない」という
”誤った近さ”を演出しているものなのだろうか。










とはいえ、アイドルが虚像じゃなくて
実像という等身大の姿を求められている。


そうなると、芸能人としてファンと接するというよりは
個人と個人との交流を楽しんでいる。






だとしたら、人と人が関わる上での最低限のルール。
されて嫌なことをしないとか、相手の気持ちを配慮するとか
そういうものを守ることを双方が求めるのは、
自然な流れなのかもしれない。

受ける心で愛


心って大好きだった人にもらうものだと思うんです。
人を好きになると、心ってもらえるんですよね。
(ドラマ・それでも生きていく より)







私これから ホツレタ心 愛で紡いで
モンキーマジック・アイシテル)










☆☆





心を作るのは愛。
愛を与えてくれる人がいなくなってしまい
バラバラになった心を紡いでいくのも愛。





たとえ、愛を与えてくれる人が現実の世界からいなくなろうとも
与えてもらった「アイシテル」の言葉は胸に刻まれている。




心に残る「アイシテル」の言葉だけで、
ホツレタ心は紡いでいける。あるいは、心を取り戻すという方向に向かって
人生を進ませることができる。






だとしたら、アイシテルという言葉を伝え続けることは
恥ずかしいことでもなんでもない、大切なことなんだって、
遅すぎるけど気づいた。





「アイシテル」という言葉が自分の分身となって
大切な人の心を守り、大切な人の人生を守っていく盾になっていくのなら、
出し惜しむことなく、伝えられるうちに相手に伝えておくべきなのだろう。














「愛してる」という言葉は
人の心を包み、幸せを与える。


そして、たとえ、永遠の離ればなれになったとしても、
守り続けるのだ。


愛で始まった関係は、たとえ人が消えてしまったとしても
生涯にわたって、残された人を守る。


愛してる言葉は自分の分身となって、
大切な人の人生を守ってくれるのだ











愛してるの言葉の意味は、



たとえ自分が傍らに居られない状況になったとしても
大切な人を守る自分を、言葉で媒介して相手の心に送り込むこと


なんだと、思いました。