絶対値

憂鬱たち

憂鬱たち










調剤薬局までの道を歩きながら、皆はいいなとすれ違う人々を見ながら思う。
彼らはさぞ幸せだろう。




自分が自分にしか分からない苦悩を抱えているなんて、別に普通の事だと分かっている。
この世に生きている全ての人が自分にしか分からない苦悩を抱えているのだろう。




でも、だから何だっていうんだろう。



私は自分の苦悩だけで精一杯なのだから人の苦悩まで気にする余裕はないし、
苦悩している時に世界一自分がツラいと思うのは当然だ。





苦悩すればするほど、人の気持ちなど考えられなくなるし、自分だけがツライと
思い込むし、周りは敵だと主込む。



人間はどうなのか分からないが、少なくとも私は
そんな器の小さい自分に、心底愛想が尽きる。










☆☆


ツタヤにいっても
スーパーにいっても、
自分で欲しいものが分からない。


自分で何が欲しいのか分からない。


なんで、何も満たされるものが分からないのだろう。

演じられた遊び

悲しい話がある。



通勤ラッシュの激しいある駅の売店では、ワンカップ大関と口臭剤が
隠れたヒット商品となっているという。

























飲み会の代わりに?いや、しかもそれは夜ではなく、
朝の通勤時にサラーマンが買っていくという。







酒を飲んで気持ちを少し大きくしないと、
職場にいくことができない。


通常の状態では出社できない心の壊れを、
少しでも紛らわしてくれるのが、数百円のアルコール飲料なのである。




それほどまでに今は
感情とか個性という”自分”が
日常的に抑圧されているのだろう。



















「キャラ立ちしている」ということが
一種の褒め言葉として使われている。








八方美人の進化系として


「どこでもいい人でいる」



だけでなく


「その場に求められている人物像に成りきる」




というのが
キャラ立ちしていることなのだそうだ。







それは本当の自分などというのは不要で、
他者が求めていることこそが、体現すべき自分だ、
そのほうがウケがいいし、
その場面をうまく回せる。



こういう事が
学校でも合コンでも会社でも、起こっているのだ。



実際に、場に合った役割を担ってくれる人がいたら
その人は重宝されるだろう。









自分をキャラ化して感情を抑圧しなければ、
人に認められない。

認められるには、認められるであろうキャラを
演じなければいけない。






しかも、学校、会社、あるいは友人関係、恋人関係までもが
求めているのはキャラ化した自分。


どうしても抑圧されて
怒りが溜まってしまう。


自分を見失ってしまう。



存在に疑問を持つようになる。






人は、自然体でストレスフリーでいようとするものだ。
キャラを演じるのは、自然体と対極に位置づけられる。











一方で、キャラ化する自分が求められているとは、
相手に対してもキャラ化を求めることでもある。


相手の本当の感情などどうでもいい、
お前のキャラはこうなんだから、
それに添った反応をしてくれ、というわけだ。






一人の人にある時は、
従順な役割を求めてみたり
疲れているときには、
寛大で全てを決めてくれるような役割を求めたり、
自分の状況によって、相手にもスタンスを替えてくれと
強要するような感じになっている。




知らず知らずに相手にも
自分が求めている、心地の良いキャラを演じることを求めているのだ。











これを息苦しいと思う人もいれば、
いや、「適応」して生きていくためには
必要だ!っていう人もいるだろう。




社会で求められる強さというのは
自分を捨てられること。


社会で成功できる人は、
ニセモノの自分に「適応」できることの事だ。





個性を磨け!自分だけにしかできない事を見つけろ!!




などと、義務教育では、散々自分探しをさせておいて、
いざ社会に出てしまえば、求められるのは
ブレない自分を持つことではなく、



常にブレること、
期待される人物像を演じる能力なのだ。









じゃあ、自分を捨てて社会に「適応」出来る人は、
仕事で評価され、友人も多くて、人脈も広がって、
いやゆる勝ち組なのかといわれれば、残念ながら
そうとは限らない。



キャラの自分で認められるのは嬉しいけど
キャラじゃないと認められないんじゃないか、という不安が
常に付きまとうのだ。






他人との距離感を測り、
うまくやっていくために自分を隠し、
その場に期待されるようなキャラを演じ、
求められるキャラを演じている。



そして実際に、色々な場面をある程度上手に
乗り越えていけるのだろう。




しかし、そこで弊害が生まれてしまう。





自分とは違う期待されているキャラを演じているってことは
その演じているキャラが自分であると相手が受け取っているし、
キャラを演じているからこそ、相手に認められているんじゃないかと思ってしまう。





本当の自分は別にいて、
期待されたキャラを演じられないダメな自分で接したいのに
拒絶が怖くなる。



相手が(演じている)自分を認めてくれればくれるほど
仲良くなればなるほどに、本当の自分を出す機会はなくなっていく。




そうして、求めらるキャラを演じ続けることになってしまう。



関係性は深まれど、安心した関係にはなれなくなってしまう。
自分を好いてくれている相手なのに、なぜか空しさが溜まっていく。













どんなに仲良くて趣味が合って話が弾んで笑顔がこぼれて、
抱き合えるような関係であっても、
本当の自分で付き合えて、理解され認めもらえなければ



それは、
一人でいるとき以上の孤独をもたらしてしまうかもしれない。





大きな傷を回避するために
小さな傷を選んでいても
その痛みは蓄積され、
結果的に大いなる痛手を負ってしまう可能性は高いのだろう。



耐えるだけで改善のないところには
前進は無いから。

大事にされている感


今、園児達がオママゴトをすると
一番人気は「ペット役」なのだそうだ。

ペットは愛される存在だから
ペット役をやりたいのだそうだ。




















ペットを可愛がるのは
ペットが可愛いというよりも
ペットを可愛くした自分が喜びたい、
(思い通りに)可愛くなったペットを鑑賞することで、自分が満足感を得たい
というものです。





決してペットそのもの感情とか思考が好きなわけではありません
あくまで、自分の思い通りに可愛くなってくれるから好きなのです。




ペットそのものを愛しているのではなく
かわいいペットだから世話をしているのです。


ここが重要です。













けれども近年は、
ペットのように愛されたいという願望を
抑えきれずに、自分を差し出してまで
大事にされることを望む行動が増えている。






お姫様のように大事にされて、しかもお金までもらえる、
夢のような行動だ。





昔の売春は本当に貧困を解消する為に
まさに魂も売っていた状態だったらしいけど
ある程度、物質的に豊かになったこの国で
身体を売る意味は、お金よりも、





「大事にされている」







という感覚が欲しくて、
お手軽に自分を差し出しているのだ。





いいや、お金が欲しいだけ。
なんて言い訳をするかもしれないが、
お金が欲しいというニセモノを使って本心を隠しているのだ。



自分が寂しいだなんて、そんな簡単には認められないものだ。
本当に欲しいものになんか、気づきたくも無いのかもしれない。







けれども実際には、身体を差し出すと
メチャメチャ大事にされる。

必死で機嫌を取ろうとしてくれる、褒めてくれる、
自分が認められている、なんか安心感がある、



そんな風に、お金じゃない部分がかなり満たされるのだ。






それは確かに大事にされていると感じられるかもしれない。
けれどもそれは極端な話、性の対象として大事にされているだけ。
役割を果たしてもらうためには、機嫌を損ねないよう注意深く
ガラス細工を扱うように丁寧に扱われているだけだ。


役割を終われば、ハイ終了。
また「よろしくね」なんて言われてしまう。



電波が通じるから携帯の使用料を払っている。
けれども、電波が入らない携帯なんて、すぐに捨てられてしまう。


そういう”機能”を備えているから大事にされるのであって
本当の自分を大事にされているわけじゃない。



それを大事にされていると、
勘違いしてしまうのでしょう。





けれども、そういう自己満足の愛でもいいから
大事にされたい、愛されたい、愛して欲しいと子どもは思ってしまう。

それほど愛が枯渇している。


だから大事にされるって分かると
身体を差し出すことさえイトワナイ。




それで後で寂しくなる。










寂しさを忘れたいための行動で
さらに寂しさが加速されていく。皮肉なものだ。



性の対象として大事にされたところで
何かが満たされる事はないって、わかってるのに。


本当に欲しいものは、そういう条件のついた自分じゃなくても
愛してもらって大事にしてもらうことなのに。
















寂しさは寒さと似ている。





凍えそうに寒い時に
温かな毛布を差し出されたら
受け取ってしまうだろう。


寂しくて凍えているときに
大事にされる、という温かさをくれる人がいたら
それはもう抵抗する余地など無い。









けれど本当は知っている。


ありのままじゃない、
何か条件のついた自分を愛してもらったって
ただ空しいだけだって。



どれだけ整形して、ダイエットして、露出度の高い服を着て、
外から(単なる性の対象としての)魅力的に映るようになり
どれだけ求められ、愛されようとも
心が満たされることなんか、無いんだって。




惰性で愛されたって、
そんなの簡単に分かっちゃう。
演技はすぐにバレる。



けれども惰性でもいい、
一瞬でもいいから大事にされたいって思ってしまう。


でも、本当のありのままの自分では愛されてこなかった。
だから性という武器を使ってでも、大事にされる瞬間を求めてしまう。



惰性を続ければ続けるほど、
空しさは深くなっていくばかりなのに、
それでも抜け出すことができなくなってしまう。




大きな痛みを回避しようと、小さく傷つき続けていると、
いずれは、大きな痛みを伴ってしまう。












お手軽な幸せは、あふれているけれど
お手軽に幸せになる方法など、無い。



というのは冷静に落ち着いてチョット考えればわかる。



けれども、落ち着いて考えるほどの安定感が心に無いのだろう。



それくらい、愛情が欠乏していて
ソワソワしている。だから手っ取り早く
愛されていると感じられて、大事にされる方法に走る。





愛されたいからって愛が欲しい、とは限らない。
愛されている、大事にされている、注目されている自分を
感じたいだけ。


この見極めをしないで感情に流されていると
空しさが増していくばかりです。










大事にされることと、愛されることは
とっても良く似ているのかもしれない。


けれども、一瞬の為に自分を簡単に差し出してしまうのは、
やっぱり間違っている気がする。
綱渡りみたいな毎日を続けたって、いつまでも負のループからは
抜け出せないよ。。。


そして満たされない自分に我慢できなくなって、
どんどんおかしい方向に行ってしまう。








日常生活での恒常的な寂しさは、暴力を生みます。
その暴力が他人に向けられるか、自分に向けられるか、の違いです。



そして他人をすぐに否定したり、攻撃したりするので
人間関係が築けなくて、余計に寂しさを生み、
孤独を生み出していくのでしょう。


ありのままを愛してもらう機会を失ってしまうのです。




大切なのは、
自分が何に満たされていないのかを知ること、
満たされていない自分を認めることだ。


そこから全てが始まっていく。



足りていない自分を受け容れない限りは
そのことを改善していこうという意識が生まれないから。



だから、満たされていない自分を受け容れるなんて
本当に苦しいし恥ずかしいことなのかもしれない。


けれども、まずは足りていない自分そのものを受け容れる。
行動の背景にあるものを分析して受け止めて、そこから始めていきましょう。

おひとりさま、楽しめてる??





朝の忙しい時間に保育園に送っていくと
いつも親と離れるのをグズる子供たち。




15分以上メールの返信が無いと嫌われている、
ハブかれていると思ってしまい、
返信の催促の電話をする若者たち。










恐らく


”誰かと繋がっている”
という根本的な安心感が欠如しているために
起こってしまう現象なのでしょう。





















メールが返ってこなくて
不安になるのは分からないでもないけど
相手が常に携帯を手にしているわけじゃないし
返信できる状態であるわけでもない。
相手にだって都合がある。



いや、そんなことは若者も頭の中では
理解しているのだろう。




それでも不安で不安でしかないだろう。



世界の誰かとつながりを常に
感じていないと不安なんだ。





つながりを感じられないからこそ
常に電波というメールを使って、
つながっている感覚を求めるのだろう。






本当の繋がりは、形になって目に見えるもので繋がって無くても
それでも相手と繋がっていると思えることなのに…。











それは、
きっと両親(特にお母さん)との関係がダメだったのだろう。



離れていても、心の中にお母さんが見守ってくれている
という安心感が育まれていないために
形あるモノでしか繋がっていることを確認できないんだ。




現に、
子供が四六時中、離してはくれずトイレのもお風呂にも
入る時間も確保できないと言うお母さんが本当に増えているそうだ。



”お母さんの姿”という
目に見えて確認できるものが無くなってしまうと
世界との繋がりを感じることが出来ずに不安になってしまうのでしょう。






基本的信頼感を愛着期に身につけさせてもらえなかった
子供は、「自分は世界と繋がっているの?」という
漠然とした自分の存在感の不安定さに怯えながら生きているんだ。




だから存在と繋がりが分かりやすく手に入るメールまで
無視されたって感じてしまったら、
世界から見捨てられた拒否された、って思ってしまうのは
決して被害妄想なんかじゃないってのが、わかりますよね。




メールって単なるコミュニケーションの道具だけでなく
自分が存在を認めてもらえているっていう安心感を与えてくれる
ものでもあるんですよね。きっと。。










ある保育園で早朝の定番の風景がある。






お母さんが幼稚園に送って
子供がお母さんと離れたくないってグズる。

一見、すぐに保育園に入っていってクラスの子たちと遊ぶ子よりも
お母さんを強く求めていて、愛するお母さんとの別れが寂しいからグズっている
という見方をしてしまいがちだが、実はそうではない。











本当にお母さんと信頼関係が結べている子供は
さっと保育園のお友達との遊びに興じる子だ。


お母さんとつながっている、という安心感が育っていないから
余計につながりたくてグズるのである。




本当に心で繋がっていて、お母さんが心の中に居る子供は
グズることなく笑顔で手を振って保育士さんの元へ掛けていくだろう。

一緒に居なくても、いつもお母さんと一緒なんだ!だから大丈夫!!
という心のサポーターが、ちゃーんと見守っててくれることがわかっているから
安心して、保育園で遊ぶことが出来る。








本当に心が強いと言われる人は、きっと
ある程度の寂しさを自分で処理できる人のことだ。


寂しいなぁって感じ、ちょっと落ち込んだとしても
”誰もソバにいないけれど、誰かが自分のソバ(心の中)にいてくれる”
っていう見えないサポーターが心にいる人がいるからこそ
自分で寂しさ処理して、自分だけの時間を大切にすることができる。

自分だけの時間を大切に出来る人であれば
勉強であろうと仕事であろうとスポーツであろうと、
成長も加速度的であると思います。









寂しさと言う永遠の敵を倒すために
見えないつながり、という武器をどれだけ携えて進んでいけるか。

それが人生を豊かさを大いに左右するファクターであると
言えるのではないだろうか。




















基本的信頼感を得られなかった人は
身体が成長しようとも常に世界とのつながりを感じることが出来ない。
だからこそ常にメールや電話などを使って相手を束縛し、つながりがあるかのように
関わっていたいと思うのだ。







だから15分もすると、つながっていない感覚に耐えられなくなってしまうのだ。


便利の世界との代償は心のつながりなのかもしれない。

名前のない感情

僕が会いたいなぁって伝える人、伝えられる人って
生きてきた中でも、かなり少数。
そして、今、会いたいっていう恥ずかしい気持ちを伝えられる異性は
あなた一人。







あなたにとっては、たくさんの友達がいて、
会いたいって言う気持ちを
日常的に伝えていて、それを受け止めてくれる友人が
たくさんいるのかもしれない。





いやむしろ、そういう
当たり前の幸せが身についているあなただからこそ
僕は自然と幸せオーラに惹かれていったのかもしれない。




けれども、僕にとって、そんな自分の気持ちを素直に伝えたいなぁ
伝えても大丈夫だ、って思える女性って、いないんだよ?




まぁそんなこと、幸せに囲まれて育ってきたあなたには
関係ないだろうし、わからないだろうけれどもね。




ただ、
この世に一人でも、自分の事を分かってくれる人がいることが
こんなに心強いと思わなかった。




常に自分は一人ぽっちで、
世界とも繋がれていないんじゃないかって
不安で不安でたまらなかった。


心がソワソワしていて、何にも集中できないし、
安心感が欠如して、いつも何かに怯えていた。
生きている感じがしなかった






けれども、あなたにありのままを認めてもらえたことで
あなたを媒介として自分は世界と繋がっているんだな
世界に拒否されていないんだなって、思うことが出来た。


あなたが僕に世界を与えてくれたのだ。


安心な世界に安定できる場所があるって
教えてくれたんだ






でもだからって、あなたに何を伝えればいいのかは
自分でもよくわかりません。


人にありのままを見せる方法が分からない僕は
あなたへの気持ちが、どういう種類のものなのかわらないのです。



人間として、なのか
異性として、なのか
単なる理解者として、なのか
愛してくれそうな人だから、なのか
愛されたい自分に愛をくれそうだから、なのか



どれが自分の気持ちなのか、わからないのです。



人を信じないようになると、
自分を信じられなくて自分が何をしているのか分からなくなって
やがては感情を失い、そして自分自身をも、
失ってしまうようです。




ただ、この感情が、もしかしたら?って思うんです。



もしかしたら
生まれからずっと自分には欠落していて
他人には当たり前にあるように感じていたモノ、
感じたくて欲しくて求めて求めすぎていたモノ、


「愛」


なのかもしれません。




愛が何なのか、ぼんやりとした金型がある人は、
愛されたと感じたことがある人は、
なんとなくこういうのが愛なんだなって掴めるのかもしれません。


けれども、今の僕の感情は、
自分の中で名前のついていない感情なのです。


愛の形が、ぼんやりとでも分かっていれば
それと照合さればいいのですが、僕にはその形が備わっていない。


だから、あなたに、何を言えばいいのかわからないのです。


ただ、何か伝えなければって、伝えたいって
抑えきれない感情がこぼれている事も事実なのです。





だから、僕はどうすればいいのでしょうか?


好き、愛している、は回り回って結局は
ありがとう、という言葉になってしまいそうです。

それ以上の意味を伝えるには
僕は自分を整理できていないし
受け止めてもらう自信もないのです。



けれども、一人で抱えておくには
強くて重すぎる感情なのです。






言葉にすれば壊れそうです。
どうすれば君に伝えられたのでしょうか
















相変わらず人は裏切る、自分を受け容れてくれないものなんだなぁ
っていう意識が強いなぁ空しい人生だなぁ
寂しいなぁ
人を信頼したいなぁ
自分は受け容れらる人間なんだって
ちょっとでも自信が持てたらなぁ

信じて始まる

もっと甘えてもいいよ、
簡単に離れていかないから大丈夫だよ。






こんな風に言われれば心が震える。
特に心から人を信じたことの無い人間にとっては
まさに救いの言葉だ。






そうだ、この人になら、素直にダメな自分を出してもいいのかもしれない
って思う。自分が変わるかもしれないって思う。


それでも、やっぱりダメだ。
人なんて簡単に信じられない。







自分みたいなダメな人間を信じ込ませて
絶望にたたき落とすために、
自分を騙して楽しもうとしているのではないか
そんな風に思ってしまう。







自分は、とっても残念な人間なのだ。






自分なんか、愛される理由がない。
愛される理由の無い人間に近寄ってくるのは
何か裏があるのではないかって
常に警戒してしまい、相手が真実の愛を与えてくれようとしているのに
それを受け取れない。拒んでしまうのだ。




そうやって、いつまでも自分に価値がないって思っているうちは
相手がどれだけ思っていても、愛を受け取ることができない。





そして、さらに孤独と空しさが深まっていくのだ。。






愛されないことが問題なのではなく、
愛されていることが実感できていないことが問題なのだ。



相手の愛をうまく受け取れない自分の方に問題がある。
だとしたら、愛を欲しいと思うならまずは、
自分が変わらなきゃいけない。




何をどう変えるのか、といえば、
人の愛を信じ、感じられるようになることだ。










自分を信じるって事は
自分という人間に、ある程度は愛される価値があるのだという事を
自分で自信を持つことだ。




自分に価値があるのだと
自分が信じていないと、他人が敵に見えてしまいます。







心の中では信じたくてたまらないのに
信頼することを恐れているのは、
誰をどんな状況で信頼したら良いのかがわからないからです。


周りは自分を信用させておいて裏切るという
ゲームをしているのではないか?
という人間は全て自分に不具合を与える存在なのではないか、という
疑念が、どうしても拭い去れないのだ。






価値のない自分に近寄ってくるのは
何の目的があるのだろう?



騙してお金を取ろうとしているのか
信用したところで裏切るというゲームの標的にされたのか



という疑いから入ってしまい
友情も愛情もウソに聞こえる、心にしみてこないのです。 



人が親切にしてくれると
「私にどうして欲しいのだろう?何をたくらんでいるのだろう?」
と、まず考えてしまう。




こういう流れになってしまうので、
人を信じるには、まずはある程度、
自分は価値のある存在なんだという事を
自分で信じてあげることが大切なのです。











そうは言っても、
人を信じることは裏切られる、自分に良くないことが起こるものだ、
という過去の経験から来る価値観を持っている人にしてみれば
人を信じることから全てが始まっていくとわかっていても
それは極めて高いハードルでしかない。




もし仮に、信頼に値する人に出会ったとしても
仲良くなるにつれ、なぜか不安になっていきます。

信頼感のある関係を築きはじめたとしても、
それは不意に終わりを告げます。





それは、信頼すればするほど
裏切られたときのダメージが大きいことを知っているからだ。


愛すれば愛するほど、
傷つくのではないかと思ってしまうから。





本当は、信頼というのは少しずつお互いの間で積み重ねていくものなのに


すぐに親密になって完全に信頼しあえる、
夢のような友情を望んでばかりいます。


この人は完全に信頼できる!100%信頼できる!!
そんな風に、信じるか信じないか、という
極端なことになってしまうこともあります。



少しずつ信頼を重ねるということは
少しずつの場面が多くなるので
その場面の度に、裏切られる恐怖と闘うのが耐えられないのだ。



だとしたら、最初から信頼しないか
一気に最初から全幅の信頼を置くか、という方法を取ってしまうのです。



人間関係は、白か黒かなんて、簡単に割り切れるものではなく
もっとフワフワしているものなのに、
全く信頼しない、完璧に信頼するのどちらかに割れてしまうのは
裏切られるかも知れない不安に耐えられないんですよね。


裏切られて自尊心が傷つくことが耐えられない。






人を信じることっていうのは実は
相手が信頼できる人物かどうかということよりも
自分が相手を信じきるだけの勇気があるかどうかが重要なんだ。


それはつまり、その人に裏切られても
自分が深く傷つかない程度の自尊心を持っている自分であるかどうか、
という事がポイントだ。









自分自身を信頼しない限り、
人を信頼することはできません。


信頼が裏切られて傷つくことを恐れているからです。




けれども、人を信じて人から温かい感情を与えてもらいながら生きたいと
思っているのも事実だ。






だとしたら、相手を信じきって裏切られたとしても
それでも自分で自分で保てるだけの自尊心を身につけることだ。


相手の評価によって傷つかない、
自分で自分を最低限は満たして上げられるような自尊心が。



自分だけで自分を満たして上げられる自尊心があれば
裏切られることに対しての怖さも軽減するから
相手を思いっきり信頼することができるし
相手の評価によってそんなにブレない自分で接することができれば
相手にも好意を持ってもらいやすい。




人は自然体の相手には自然体で
不自然な人には不自然に接してしまうものなのだ。






信じることから全てが始める。

人を信じたい。
その為には自分には価値があることを自分で自分を信じる。




自分の価値を信じることができれば
卑屈になることなく相手と接することができるから
誰かからの温かな生きるパワーをもらえるかもしれない。



そしていつかは
言葉で言ってもらわなくても態度で
この人は自分から離れていかないなぁ
という安心感を受け取れる自分でありたいと思う。


今はまだ、言葉にしてもらっても信じきれない段階だ。
それは相手が見捨てようとしているのではなく、
相手が大事にしてくれているというサインを
僕がうまくキャッチできないだけ。




相手の愛を受け取るには
何よりもまず、自分で自分を信じるという
自分との戦いから始まる。



全てのことは信じることから始まるのだ。

過去は変えられない




死にたいとか、自分は必要ないとか思うときって
たいてい、社
会で認められる活躍を出来ない自分を感じたときだよね。

働けない自分は存在する価値がない、って思うから
死にたいってなる。


けどそれは、
必死で自分の存在価値を守ろうとしてきた結果。




勉強をしたり、いい子でいなければ評価してもらえない
だから、必死に勉強をする
勉強しかしてこないから、勉強をすることに疑問を持ってしまって
休んで自分について考え直そうとするんだけど
勉強以外に時間の使い方がわからない。


おまけに、
勉強をしている点数の取れる自分しか愛してもらえないと思っているし
点数を取ることでしか自分で自分を誉めてあげて
満足する方法を知らない


勉強がうまくいっているときは
時間の使い方も親の評価も自尊心も全てがうまくまわるからいいけど
勉強が難しくなったり、
周りも同じくらいのレベルの人が集まるようになると満足する結果が誰もが得られるわけじゃない。


そうすると、勉強で自尊心を保っていたのに
唯一の方法がわからなくなる。


だから、自分の価値に疑問符がついて、
攻撃的になったり自分を傷つけたりしてしまう。


勉強・仕事をしていない時間に何をすればいいのかわらない
退職して会社に通って仕事をする以外に
時間の使い方がわからない




過去は変わらない。
おきてしまった出来事は残念ながら消えないし、
なかったことにならない。



じゃあ、心を痛める出来事があったら、
それは一生抱えていかなければならないのかっていうと



そんなことはない。




起きた事実はかわらないけれど
その事実の捉え方を変えることで
自分の過去を肯定し、自分を嫌い事が少しずつ少なくなっていくのは
大いに可能なのだ。

過去は変わらないから捉え方を変えていくしかない





人とうまくいかないのは
人とうまく出来ない親の対人パターンを幼いころから
必死に取り込んできた結果。



ダメなパターンを受け継いだのだからダメで当然。



子は親を選べないので、子供に責任はない。


苦しいのかもしれないし
生きづらいのかもしれない。


けれども、それはあなたにはイッサイの責任はない。




子供にとって親は世界を築く上での唯一絶対の先生だから
親の真似をして必死に生きていこうと努力した証。


だから、自分を責めないで。



ここまで生きてくるのに必要だったんだな、
自分頑張ったんだなって
自分で自分のことを認めてあげなければ、先は進めない。



自分を嫌いなうちには心が満たされるわけがない。
不器用で周りよりも大きなダメージを負った自分だけど
それも生きるのに必死だったんだな!って自分で過去を
肯定してあげないと、現在も未来も進めない。


うまくいかなった自分も必要だったんだなって
思ってあげないと、ダメなんだよね。悲しいけど。。