大事にされている感


今、園児達がオママゴトをすると
一番人気は「ペット役」なのだそうだ。

ペットは愛される存在だから
ペット役をやりたいのだそうだ。




















ペットを可愛がるのは
ペットが可愛いというよりも
ペットを可愛くした自分が喜びたい、
(思い通りに)可愛くなったペットを鑑賞することで、自分が満足感を得たい
というものです。





決してペットそのもの感情とか思考が好きなわけではありません
あくまで、自分の思い通りに可愛くなってくれるから好きなのです。




ペットそのものを愛しているのではなく
かわいいペットだから世話をしているのです。


ここが重要です。













けれども近年は、
ペットのように愛されたいという願望を
抑えきれずに、自分を差し出してまで
大事にされることを望む行動が増えている。






お姫様のように大事にされて、しかもお金までもらえる、
夢のような行動だ。





昔の売春は本当に貧困を解消する為に
まさに魂も売っていた状態だったらしいけど
ある程度、物質的に豊かになったこの国で
身体を売る意味は、お金よりも、





「大事にされている」







という感覚が欲しくて、
お手軽に自分を差し出しているのだ。





いいや、お金が欲しいだけ。
なんて言い訳をするかもしれないが、
お金が欲しいというニセモノを使って本心を隠しているのだ。



自分が寂しいだなんて、そんな簡単には認められないものだ。
本当に欲しいものになんか、気づきたくも無いのかもしれない。







けれども実際には、身体を差し出すと
メチャメチャ大事にされる。

必死で機嫌を取ろうとしてくれる、褒めてくれる、
自分が認められている、なんか安心感がある、



そんな風に、お金じゃない部分がかなり満たされるのだ。






それは確かに大事にされていると感じられるかもしれない。
けれどもそれは極端な話、性の対象として大事にされているだけ。
役割を果たしてもらうためには、機嫌を損ねないよう注意深く
ガラス細工を扱うように丁寧に扱われているだけだ。


役割を終われば、ハイ終了。
また「よろしくね」なんて言われてしまう。



電波が通じるから携帯の使用料を払っている。
けれども、電波が入らない携帯なんて、すぐに捨てられてしまう。


そういう”機能”を備えているから大事にされるのであって
本当の自分を大事にされているわけじゃない。



それを大事にされていると、
勘違いしてしまうのでしょう。





けれども、そういう自己満足の愛でもいいから
大事にされたい、愛されたい、愛して欲しいと子どもは思ってしまう。

それほど愛が枯渇している。


だから大事にされるって分かると
身体を差し出すことさえイトワナイ。




それで後で寂しくなる。










寂しさを忘れたいための行動で
さらに寂しさが加速されていく。皮肉なものだ。



性の対象として大事にされたところで
何かが満たされる事はないって、わかってるのに。


本当に欲しいものは、そういう条件のついた自分じゃなくても
愛してもらって大事にしてもらうことなのに。
















寂しさは寒さと似ている。





凍えそうに寒い時に
温かな毛布を差し出されたら
受け取ってしまうだろう。


寂しくて凍えているときに
大事にされる、という温かさをくれる人がいたら
それはもう抵抗する余地など無い。









けれど本当は知っている。


ありのままじゃない、
何か条件のついた自分を愛してもらったって
ただ空しいだけだって。



どれだけ整形して、ダイエットして、露出度の高い服を着て、
外から(単なる性の対象としての)魅力的に映るようになり
どれだけ求められ、愛されようとも
心が満たされることなんか、無いんだって。




惰性で愛されたって、
そんなの簡単に分かっちゃう。
演技はすぐにバレる。



けれども惰性でもいい、
一瞬でもいいから大事にされたいって思ってしまう。


でも、本当のありのままの自分では愛されてこなかった。
だから性という武器を使ってでも、大事にされる瞬間を求めてしまう。



惰性を続ければ続けるほど、
空しさは深くなっていくばかりなのに、
それでも抜け出すことができなくなってしまう。




大きな痛みを回避しようと、小さく傷つき続けていると、
いずれは、大きな痛みを伴ってしまう。












お手軽な幸せは、あふれているけれど
お手軽に幸せになる方法など、無い。



というのは冷静に落ち着いてチョット考えればわかる。



けれども、落ち着いて考えるほどの安定感が心に無いのだろう。



それくらい、愛情が欠乏していて
ソワソワしている。だから手っ取り早く
愛されていると感じられて、大事にされる方法に走る。





愛されたいからって愛が欲しい、とは限らない。
愛されている、大事にされている、注目されている自分を
感じたいだけ。


この見極めをしないで感情に流されていると
空しさが増していくばかりです。










大事にされることと、愛されることは
とっても良く似ているのかもしれない。


けれども、一瞬の為に自分を簡単に差し出してしまうのは、
やっぱり間違っている気がする。
綱渡りみたいな毎日を続けたって、いつまでも負のループからは
抜け出せないよ。。。


そして満たされない自分に我慢できなくなって、
どんどんおかしい方向に行ってしまう。








日常生活での恒常的な寂しさは、暴力を生みます。
その暴力が他人に向けられるか、自分に向けられるか、の違いです。



そして他人をすぐに否定したり、攻撃したりするので
人間関係が築けなくて、余計に寂しさを生み、
孤独を生み出していくのでしょう。


ありのままを愛してもらう機会を失ってしまうのです。




大切なのは、
自分が何に満たされていないのかを知ること、
満たされていない自分を認めることだ。


そこから全てが始まっていく。



足りていない自分を受け容れない限りは
そのことを改善していこうという意識が生まれないから。



だから、満たされていない自分を受け容れるなんて
本当に苦しいし恥ずかしいことなのかもしれない。


けれども、まずは足りていない自分そのものを受け容れる。
行動の背景にあるものを分析して受け止めて、そこから始めていきましょう。