演じられた遊び
悲しい話がある。
通勤ラッシュの激しいある駅の売店では、ワンカップ大関と口臭剤が
隠れたヒット商品となっているという。
飲み会の代わりに?いや、しかもそれは夜ではなく、
朝の通勤時にサラーマンが買っていくという。
酒を飲んで気持ちを少し大きくしないと、
職場にいくことができない。
通常の状態では出社できない心の壊れを、
少しでも紛らわしてくれるのが、数百円のアルコール飲料なのである。
それほどまでに今は
感情とか個性という”自分”が
日常的に抑圧されているのだろう。
☆
「キャラ立ちしている」ということが
一種の褒め言葉として使われている。
八方美人の進化系として
「どこでもいい人でいる」
だけでなく
「その場に求められている人物像に成りきる」
というのが
キャラ立ちしていることなのだそうだ。
それは本当の自分などというのは不要で、
他者が求めていることこそが、体現すべき自分だ、
そのほうがウケがいいし、
その場面をうまく回せる。
こういう事が
学校でも合コンでも会社でも、起こっているのだ。
実際に、場に合った役割を担ってくれる人がいたら
その人は重宝されるだろう。
自分をキャラ化して感情を抑圧しなければ、
人に認められない。
認められるには、認められるであろうキャラを
演じなければいけない。
しかも、学校、会社、あるいは友人関係、恋人関係までもが
求めているのはキャラ化した自分。
どうしても抑圧されて
怒りが溜まってしまう。
自分を見失ってしまう。
存在に疑問を持つようになる。
人は、自然体でストレスフリーでいようとするものだ。
キャラを演じるのは、自然体と対極に位置づけられる。
☆
一方で、キャラ化する自分が求められているとは、
相手に対してもキャラ化を求めることでもある。
相手の本当の感情などどうでもいい、
お前のキャラはこうなんだから、
それに添った反応をしてくれ、というわけだ。
一人の人にある時は、
従順な役割を求めてみたり
疲れているときには、
寛大で全てを決めてくれるような役割を求めたり、
自分の状況によって、相手にもスタンスを替えてくれと
強要するような感じになっている。
知らず知らずに相手にも
自分が求めている、心地の良いキャラを演じることを求めているのだ。
☆
これを息苦しいと思う人もいれば、
いや、「適応」して生きていくためには
必要だ!っていう人もいるだろう。
社会で求められる強さというのは
自分を捨てられること。
社会で成功できる人は、
ニセモノの自分に「適応」できることの事だ。
個性を磨け!自分だけにしかできない事を見つけろ!!
などと、義務教育では、散々自分探しをさせておいて、
いざ社会に出てしまえば、求められるのは
ブレない自分を持つことではなく、
常にブレること、
期待される人物像を演じる能力なのだ。
☆
じゃあ、自分を捨てて社会に「適応」出来る人は、
仕事で評価され、友人も多くて、人脈も広がって、
いやゆる勝ち組なのかといわれれば、残念ながら
そうとは限らない。
キャラの自分で認められるのは嬉しいけど
キャラじゃないと認められないんじゃないか、という不安が
常に付きまとうのだ。
他人との距離感を測り、
うまくやっていくために自分を隠し、
その場に期待されるようなキャラを演じ、
求められるキャラを演じている。
そして実際に、色々な場面をある程度上手に
乗り越えていけるのだろう。
しかし、そこで弊害が生まれてしまう。
自分とは違う期待されているキャラを演じているってことは
その演じているキャラが自分であると相手が受け取っているし、
キャラを演じているからこそ、相手に認められているんじゃないかと思ってしまう。
本当の自分は別にいて、
期待されたキャラを演じられないダメな自分で接したいのに
拒絶が怖くなる。
相手が(演じている)自分を認めてくれればくれるほど
仲良くなればなるほどに、本当の自分を出す機会はなくなっていく。
そうして、求めらるキャラを演じ続けることになってしまう。
関係性は深まれど、安心した関係にはなれなくなってしまう。
自分を好いてくれている相手なのに、なぜか空しさが溜まっていく。
☆
どんなに仲良くて趣味が合って話が弾んで笑顔がこぼれて、
抱き合えるような関係であっても、
本当の自分で付き合えて、理解され認めもらえなければ
それは、
一人でいるとき以上の孤独をもたらしてしまうかもしれない。
大きな傷を回避するために
小さな傷を選んでいても
その痛みは蓄積され、
結果的に大いなる痛手を負ってしまう可能性は高いのだろう。
耐えるだけで改善のないところには
前進は無いから。