演じられた遊び

悲しい話がある。



通勤ラッシュの激しいある駅の売店では、ワンカップ大関と口臭剤が
隠れたヒット商品となっているという。

























飲み会の代わりに?いや、しかもそれは夜ではなく、
朝の通勤時にサラーマンが買っていくという。







酒を飲んで気持ちを少し大きくしないと、
職場にいくことができない。


通常の状態では出社できない心の壊れを、
少しでも紛らわしてくれるのが、数百円のアルコール飲料なのである。




それほどまでに今は
感情とか個性という”自分”が
日常的に抑圧されているのだろう。



















「キャラ立ちしている」ということが
一種の褒め言葉として使われている。








八方美人の進化系として


「どこでもいい人でいる」



だけでなく


「その場に求められている人物像に成りきる」




というのが
キャラ立ちしていることなのだそうだ。







それは本当の自分などというのは不要で、
他者が求めていることこそが、体現すべき自分だ、
そのほうがウケがいいし、
その場面をうまく回せる。



こういう事が
学校でも合コンでも会社でも、起こっているのだ。



実際に、場に合った役割を担ってくれる人がいたら
その人は重宝されるだろう。









自分をキャラ化して感情を抑圧しなければ、
人に認められない。

認められるには、認められるであろうキャラを
演じなければいけない。






しかも、学校、会社、あるいは友人関係、恋人関係までもが
求めているのはキャラ化した自分。


どうしても抑圧されて
怒りが溜まってしまう。


自分を見失ってしまう。



存在に疑問を持つようになる。






人は、自然体でストレスフリーでいようとするものだ。
キャラを演じるのは、自然体と対極に位置づけられる。











一方で、キャラ化する自分が求められているとは、
相手に対してもキャラ化を求めることでもある。


相手の本当の感情などどうでもいい、
お前のキャラはこうなんだから、
それに添った反応をしてくれ、というわけだ。






一人の人にある時は、
従順な役割を求めてみたり
疲れているときには、
寛大で全てを決めてくれるような役割を求めたり、
自分の状況によって、相手にもスタンスを替えてくれと
強要するような感じになっている。




知らず知らずに相手にも
自分が求めている、心地の良いキャラを演じることを求めているのだ。











これを息苦しいと思う人もいれば、
いや、「適応」して生きていくためには
必要だ!っていう人もいるだろう。




社会で求められる強さというのは
自分を捨てられること。


社会で成功できる人は、
ニセモノの自分に「適応」できることの事だ。





個性を磨け!自分だけにしかできない事を見つけろ!!




などと、義務教育では、散々自分探しをさせておいて、
いざ社会に出てしまえば、求められるのは
ブレない自分を持つことではなく、



常にブレること、
期待される人物像を演じる能力なのだ。









じゃあ、自分を捨てて社会に「適応」出来る人は、
仕事で評価され、友人も多くて、人脈も広がって、
いやゆる勝ち組なのかといわれれば、残念ながら
そうとは限らない。



キャラの自分で認められるのは嬉しいけど
キャラじゃないと認められないんじゃないか、という不安が
常に付きまとうのだ。






他人との距離感を測り、
うまくやっていくために自分を隠し、
その場に期待されるようなキャラを演じ、
求められるキャラを演じている。



そして実際に、色々な場面をある程度上手に
乗り越えていけるのだろう。




しかし、そこで弊害が生まれてしまう。





自分とは違う期待されているキャラを演じているってことは
その演じているキャラが自分であると相手が受け取っているし、
キャラを演じているからこそ、相手に認められているんじゃないかと思ってしまう。





本当の自分は別にいて、
期待されたキャラを演じられないダメな自分で接したいのに
拒絶が怖くなる。



相手が(演じている)自分を認めてくれればくれるほど
仲良くなればなるほどに、本当の自分を出す機会はなくなっていく。




そうして、求めらるキャラを演じ続けることになってしまう。



関係性は深まれど、安心した関係にはなれなくなってしまう。
自分を好いてくれている相手なのに、なぜか空しさが溜まっていく。













どんなに仲良くて趣味が合って話が弾んで笑顔がこぼれて、
抱き合えるような関係であっても、
本当の自分で付き合えて、理解され認めもらえなければ



それは、
一人でいるとき以上の孤独をもたらしてしまうかもしれない。





大きな傷を回避するために
小さな傷を選んでいても
その痛みは蓄積され、
結果的に大いなる痛手を負ってしまう可能性は高いのだろう。



耐えるだけで改善のないところには
前進は無いから。