やっぱりね。という安堵感


機嫌が悪いときや殴られているときは
もう何が起きているかはっきりしているだけれども
機嫌の良いときは、いつ機嫌が悪くなるか、
常に緊張していなければならない。

いつはじまるのかと思うと、怖くて怖くてしょうがない。
始まるとむしろ、ホッとした。





失明したときがあなたの解夏です。
同時に失明の恐怖から解放されるのは、失明をした瞬間です。




欲しくて仕方なかったものがあるとする。
ゲームでもプラモデルでもなんでも良い。


なんどもなんども、ディスプレイを覗いては
自分と相談し財布に相談し
なんとなく我慢しよう贅沢するなって、その場はやり過ごしても
やっぱり確認したくてまた立ち寄ってしまう



そんことを繰り返しているうちに
遂には手に入れる時が来るでしょう。
しかし、渇望していたはずの物を手に入れた
と言う満足感が湧き上がってこない。



それは欲しかったのではなく
欲しいと思う自分の気持ちにおける欲求不満を
解消したという喜びをだけが残り、あんなに熱を上げて欲していたものについては
自分の物になった途端に興味が失せてしまう




この3つが示唆していることは
同じことなんだ。





ある事象が起きてしまうという恐怖は、回避されることでなく
起きてしまうことでそれに対する恐怖から解放されることもあるのだろう。

不安は、不安の所在が漠然としているが
恐怖は、何に恐れているのか概ね分かっている状態

だから、その対象が何かをしてくるかもしれないと言う
自己予言が当たって欲しいと、片隅では願っているのかもしれない。





どうだろう?



何かを失うことは何かを得る事だって聴いたことあるけれど
痛むかもしれないという恐怖は
痛みを手に入れることでしか解消できないのかもしれないし
欲しくてしかたなかったものいつの間にか
手に入らないと言う満たされない感を埋めるための手段と化してしまうこともある

どんなに悪かったことも
必要だったんだと、合理的に考える防衛を
人間は機能として持っている。




希望を持つことも
叶うか叶わないかなんて大して問題じゃない。


そうなるかもしれない、そういう感覚を
プレゼントされるだけで
生活はできないかもしれないけれど、
豊かに生きることはできるのではないだろうか



感情ってのは物質的な豊かさを超越していける力を秘めていると同時に
至福の本来持つ意味を脆弱にしてしまうのかもしれない。