介護さん





結局は、言葉に傷つき言葉に救われるのでしょう。。










過日、認知症を患い介護度5の祖母に会いに行った。


ホームヘルパーさん、デイサービス、ショートステイ、など
点数を駆使してなんとか、自宅で看ている状況だから、
なかなか会えるタイミングも限られている。


祖母と同居している祖父と伯母だって
それぞれの生活がある。24時間一緒にいてケアをしていたら、
二人のほうが先に倒れてしまうかもしれない。





ホームに入れる、という選択肢もあっただろう。
介護度も最大だ。
多少の出費はあるかもしれないけれど、
それでも、時間と体力には替えられない。

食事を食べさせるのだって、体力的、そして精神的に
かなりの徒労感を覚える介助の一つだ。



けれども、二人は自宅で、DSやSSを利用しながら
自宅での介護を選択した。



自宅で看る。というのは美談のように思える。ということは、
施設に入れることに対して、まだまだ罪悪感のようなものを
抱いてしまう、という旧態依然の価値観から、
私達は、まだまだ逃れられていないのだろう。

家族なんだから、家族が看るべきだ。責任を持ってのような…。


しかし、どれだけ重要で大切な人の介護であっても
可能であれば、家族であっても、介護に積み上げてきたものを
全て奪われるようなことは、なるべく避けなければならないと思う。










仕事を持って、それなりに責任ある立場にある伯母にしてみれば
神経をすり減らすだろう。

祖父には祖母を支えるほどの体力は残されていない。
腰が悪くて自分では座ることも出来ないから、食事をさせるには
座位にさせなければならい。



誤飲が心配されるので、
僕達のように寝ながら食べるなんて事は絶対にしてはいけない。
「ゴックンして」と諭しながら、最大限の注意を払い、
食事を介助し、脱水にならないように水分を与え、服薬を促す。



















医師からは


「薬を使って寝たきりにするか、
 暴れさせながら生かすか、どちらを選びますか?
 今は、そういう薬を使うことだって珍しくはない時代ですよ」



という、
家族の気持ちを最大限に考えていて、家族の気持ちを最も踏みにじっている言葉を
与えられたらしい。



どちらの選択も厳しいけれども
祖父と伯母は、後者を選んだ。





心の内は聞いてないが、
英断であり困難への正面突破でもある選択だったと思う。






薬で1日の大半を寝かしておく、という選択肢はハタからみれば
冷酷極まりないように思えるかもしれない。



しかし介護者が被介護者と一緒に倒れてしまったり、現実を犠牲にして
自分自身の人生を顧みることなく介護の為に生きるのは、
それはただの正義感でしかなくて、現実的ではない選択なのかもしれない。



そういう意味では、薬で寝かせて呼吸をさせておく、という対処だって、
非人道的だ!!なんて、糾弾することがどうして出来るだろう。









それでも、自宅を選らんだ二人は尊敬に値するって思った。

自分の妻、自分の親、だからこそ、最も介護が難しい人だということも
十分に考えられる中で、
その人らしく生きる、QOLのことだって加味しての決断なのだろう。



生きてるって、心臓とか呼吸の鼓動以外のところにあるのかもしれない。
って、そんなことは当たり前だけど、
そんなことを思わずにはいられなかった。














介護食を食べさせながら、擬音を発して
早く口に食べ物を運ぶように指示する祖母をみて、

「なんか、子供みたいだね」と単純に思ったことを僕は口にした。



そのときの伯母は、諭す風でもなく、ごくごく自然にこう言った。



「言葉にならない言葉を発して、何かを伝えようとしてるんだよ。
 確かになんか、命令されているようで気色悪いって思うかもね。
 
 けど、私達だって、小さい頃は、そういう風にぱぁーぷぅーという
 言語になっていない訴えを繰り返していて、それを受け止めてもらって
 育ってきたんだよ?
 やってもらったようにはうまくはできないかもしれないけれど、
 
 それでも、やってもらったことを、お返ししているだけなんだよね。
 だから、ちょっとツラくて面倒なときもあるけど、全然苦にならないんだよね。」




どれだけの事をしてもらって自分の今があるのか。
どれだけ、感謝という言葉の意味が分かっていないのか、強烈に痛感した。



いっぱしの事を口にしているつもりでも、
本質的な事は、何も分かっちゃ居ないんだって、そう思ったんだ。















子育てと介護の最大の違いは、「育つかどうか」だ。





子供は日々、色々なことをものすごいスピードで吸収し、成長していく。
成長していく姿は、世話をしている側にとっては、
自分の行為にたいする報酬が得られて、満足感を得られるし、
世話すれば育つのだから、楽しくて仕方ないだろう。




ただ、介護は、残念ながらそうはいかないケースが多い。
特に認知症は現代の医学では進行を食い止めるのが最先端であり、
根本治療には至っていない。



自分の行為にリターンがあるかどうかで、
やる気とか貢献したい寄与したい、という気持ちに差がでるのは
人間として、恥じることではない。人間は感情に生きる動物だ。














いずれにせよ、そう遠くない問題なんだなって、
現実感を改めて与えられた。




思い通りになってくれないのは同じであっても、
子育ての方の世話は、
いつかは手がかからなくなるときが来るんだって、
大きくなっていくことに寄与できるんだって、未来を思う事で
救われることがあるだろうが、
介護からの解放、それって…








時間は有限とか、
後悔は、後に悔いるから後悔とか
失うまで人は大切さに気づかないとか、

手垢のついた言葉の意味を日常に染み出させてくれたような気がした。










本当に伝えなきゃいけないことは、
今、伝えなきゃいけないのかもしれない。