表現について、自己満足的に考えてみた
人の世界観にお邪魔するのが好きだ。
その人が何を表現しようとし、その意欲はどこからくるのか
聞かせてもらうと、疑似体験見たいな感じで、経験値が増えて
心が豊かになるような気がするからだ。
そーいえば、ちょいちょいでも関係が続いてる人は
世界観をきちんと持っていて行動している人が多い気がするなぁ
暗記が強い人が稼げる時代は終わった
これからは何かを生み出す人が、
お金も生み出すってアナリストが言っていたっけ。
☆
最初に必要に迫られて自分を表現しなければならなかった場面は
高3の小論文対策の選択授業だった。
表現と呼ぶにはあまりに稚拙な場面のように思われるが、
それまで、暗記での勉強しかしてこなかった身分としては
それはそれは、身を削られる思いだった。
なんたって、何もないとこれから文章を組み立てて
意見と、その意見の根拠を述べなければならなかったからだ。
そんな訓練はしてこなかったし
マークシートや穴埋め方式のテストばかりになれていたから
まっさらな状態から
文章を組み立てていき、結論まで持っていくということを
してこなかったから。
白紙から相手に伝わるように試行錯誤する過程は
まさに自己表現だった。
小論文レベルでも
表現をしようと思ったら新聞の社説を読み、
文章の構成の仕方を学ばなければならない。
基礎体力なくして試合には勝てないということなのだ。
☆
この体験を思い返した時にはじめて表現とは、
自分の内側にある、点と点をつないで新たなものが産み出されていく
過程なのだろうと思った。
まさにアーティスティックな表現は、作り出すものではなく、
なんらかの刺激によって自己の中に浮遊していた
小さな表現の元となり得る小さな粒子が、
ある刺激によって形を変えたり引き寄せられたりして
表現としての集合体を生むのでしょう。
だけれど
最初から内側にあるものを伝えたいように表現できる人は稀有だ。
だからこそ凡人は、点と点がつながるまで
自分の内側に、点となる材料をインプットし続けなければならないし
伝えたいように伝えるためのアウトプットの練習を
しなければならないのだろう。
そしてきっと、
点と点がつながり線になりさらに何らかの形になっていく瞬間を
ブレイクスルーと呼ぶのだろう。
何かの刺激がカミナリのように体全体に行き渡り、
あらたなイメージが鮮明に浮かんでくる
あの瞬間の高揚感があるからこそ
悩んで悩んで苦しんでも
アーティスト呼ばれる人は、創作をやめないのでしょう