表現について、自己満足的に考えてみた


人の世界観にお邪魔するのが好きだ。
その人が何を表現しようとし、その意欲はどこからくるのか




聞かせてもらうと、疑似体験見たいな感じで、経験値が増えて
心が豊かになるような気がするからだ。




そーいえば、ちょいちょいでも関係が続いてる人は
世界観をきちんと持っていて行動している人が多い気がするなぁ





暗記が強い人が稼げる時代は終わった
これからは何かを生み出す人が、
お金も生み出すってアナリストが言っていたっけ。








最初に必要に迫られて自分を表現しなければならなかった場面は
高3の小論文対策の選択授業だった。





表現と呼ぶにはあまりに稚拙な場面のように思われるが、
それまで、暗記での勉強しかしてこなかった身分としては
それはそれは、身を削られる思いだった。



なんたって、何もないとこれから文章を組み立てて
意見と、その意見の根拠を述べなければならなかったからだ。




そんな訓練はしてこなかったし
マークシートや穴埋め方式のテストばかりになれていたから



まっさらな状態から
文章を組み立てていき、結論まで持っていくということを
してこなかったから。





白紙から相手に伝わるように試行錯誤する過程は
まさに自己表現だった。





小論文レベルでも
表現をしようと思ったら新聞の社説を読み、
文章の構成の仕方を学ばなければならない。



基礎体力なくして試合には勝てないということなのだ。











この体験を思い返した時にはじめて表現とは、
自分の内側にある、点と点をつないで新たなものが産み出されていく
過程なのだろうと思った。




まさにアーティスティックな表現は、作り出すものではなく、
なんらかの刺激によって自己の中に浮遊していた
小さな表現の元となり得る小さな粒子が、
ある刺激によって形を変えたり引き寄せられたりして
表現としての集合体を生むのでしょう。





だけれど
最初から内側にあるものを伝えたいように表現できる人は稀有だ。




だからこそ凡人は、点と点がつながるまで
自分の内側に、点となる材料をインプットし続けなければならないし
伝えたいように伝えるためのアウトプットの練習を
しなければならないのだろう。




そしてきっと、
点と点がつながり線になりさらに何らかの形になっていく瞬間を
ブレイクスルーと呼ぶのだろう。





何かの刺激がカミナリのように体全体に行き渡り、
あらたなイメージが鮮明に浮かんでくる
あの瞬間の高揚感があるからこそ

悩んで悩んで苦しんでも
アーティスト呼ばれる人は、創作をやめないのでしょう