縦の糸、横の意図


僕のした単純作業がこの世界を回りまわって
まだ出会ったことのない他人の笑い声を作っていく♪



織り成す布は
いつか誰の傷を庇うかもしれない♪






きっと、この二つの歌詞の根底にある思いは一緒なのだ。

常に、「ここに今いる」ことだけの存在感では
生きていく理由としては
脆弱すぎるから未来に思いを馳せるのだろう。



そうすると
肉体の死を超えて生きていけるような錯覚を
味わえるからかもしれない



現在持っている寄与力や証明書だけでは満足できなのだ。

なんだろう、証とでも足跡とでも言えるかもしれない。



誰かに、何かに、寄与して影響を与えていけるかも
しれないという思いを
希望と言って良いのであろう


相手の事を思って、という意味ではなく
自分が相手に何かを出来るということの証明としての陶酔感という意味において。

まさに、情けは人の為ならずとは、こういうことなのではないだろうか

そんな個々への証明の作業で日常のスケジュールは満杯だ。





ただまぁこれは、あくまで
概ねの事柄について恵まれた人たちのロジックなんだろうけどねー





平凡ほど怖いものはないかもしれない。



平凡は自分に張り付いて離れないし
平凡な人間ほど自分を捨てることが難しいからね。

大きな不幸は、その不幸に絶望した自分と言うものを
捨て去ることを容易にするし大きな幸福もまた
その幸福すぎる自身を投げ出したいという衝動を常に伴うものだ。

別の人間になりたくて
今の自分でなくなることになんの未練もなかった。



心底幸福な人もきっと同じだと思う。
人間は幸福で腹いっぱいになったら、どういうわけか
その幸福を惜しげもなく他人に捧げたくなるんだ。



だけど平凡な幸福はそうじゃない。




平凡な幸福はいつまでも自分にしがみついて離れてくれない。
そのうち腐り始めて、その本人を病気にする。


平凡な幸福に浸かっている限りは
人間は死ぬまで自分と言うものを変えられないし
捨てることが出来ない。

そしてそんな人間は他人の不幸に対して同情はできても
決して共感はできないだ。


共感するためには自分を捨てなきゃいけないから。



他人の幸福を心から祈れる余裕は
突き抜けないと難しいのかもしれない。




満たされる人ほど
さらに満たされ幸せに近づけるというのは
他人にかまけるくらい、自己のケアが行き届いているという
状態が必須なのかもしれない