現実という高い壁にブチノめされる

でもさー親だっていつかいなくなっちゃうよ?
いつまでもいまのままじゃいけないんじゃない??

そろそろ甘える辞めて自律しなきゃ、
孝行だって、できないじゃん!








この言い分というか意見を対面する大人に言われるにつけ
なんて正しいんだ。なんて当たり前なんだ。

と感心してしまう。







そう、この至極当たり前の考えたについては
僕でも想像が及ぶ。

あまりに普通で当たり前だから。






人間は一人で生きていかなければならないときがあるし
そうなれたことに対する感謝もいなくなる前に
ある程度は還元する義務が生じる事も


ものすごくよく、理解できる。






確かにそうだ。ごもっとも。
偽りの無い真理なのだろう。

ただ、だからこそ、である。




頑張りたいの頑張れない。
自己とか主体性とかなんかどうにでもなっていいから
社会に参加し適応して時間を過ごしたい。

そんな当たり前、普通の尊さに、ただただ脱帽するのである。






普通がイヤだと思い
人と差別化するべくして始めた行為が
精神病を引き起こしているというのに結局は


その普通を何よりも目指している現状に思わず苦笑いが出てしまう。













我慢という言葉としては
二種類あると思っている。

ランニングに例えるなら
30キロ走と30分走のようなものだ。

30キロ走るという我慢は
苦しくてもつらくて倒れそうになっても
自分が進めばそれだけゴールが近づく。いつかはゴールできるんだというイメージを持って
そのイメージを支えに必死に足を動かすことが出来る。
そして、自分が足を早く動かせば動かすほど早期に苦しみから解放されて
休息することが出来る。はやくラクになりたいというモチベーションも
自分を奮い立たせる事に寄与しているわけだ。


対して
30分走では、自分がどれだけ早く走ろうとも、どれだけゆっくり走ろうとも
30分は絶対に走らなければならない。もちろんサボることも可能なのだが
ここで言いたいのはそういうことではない。

つまり、30分という時間をじぶんの頑張りでは
どうにも短縮させたり早く終わらせたりすることは
出来ないということだ。

頑張っていれば早く終わった”ように”感じることはできるだろうが
感覚的なことではなく物理的な問題において、である。

そう、精神疾患の療養も30分走考え方に近いものがあるような気がする。

どれだけ前進しようともがいてもゴールは近づかず
一定期間をその場に留まるという意味での我慢を強いられることになる。

少しでも前進していることが実感できれば痛みだって乗り切れる。
むしろ、そうやって、困難があればあるほど、必死に乗り越えようと自分にムチを
打ってきた人たちが罹患するからこそ
敵に立ち向かわないで、ただただ攻撃されるのを回避し耐えるだけの”我慢”が苦痛なのだ。

そうして耐えることがイヤになり、敵に向かって戦うために
治り掛けてで社会という戦場に戻っていき、
結局また、症状が悪化してしまう。そんなことばかりだ。


敵や困難にむかっている人が、精神弱者にむかって
私だって頑張ってるんだから、あなただって頑張れるはずだよ!!
というのは、実は「頑張る」の質が違っているから、相容れないのかもしれない

ひたすらに時間に耐える、という頑張っている人だっている。

それは、動かずに楽だなぁと思われるのかもしれないけれど
敵に挑むという行動をしたくなる自分を我慢しているという事もあり得るのだ

ただ最後には、困難とか社会にいる敵とかに向かって戦いを挑み
収入という報酬を得なければ、やはり社会で認められないのだろう

そこに行きたいと、何かに必死に耐えています。動きたい自分にも耐えています。

伝えたいなんてそんな
大それたことはいいません。ただ聴いてほしかった、だけです。