無力感を生む寂しさ、というライフワーク

無力感。


この圧倒的な無力感はどこから訪れるのだろう







生きていることが本当にイヤになる。



生きていることがいやということは
この時間、今という時間に、ここにいることが苦
痛で仕方ないということだ。



じゃあどうして健常者は無力だなぁと
思っても消えしまいたい死んでしまいたいと
思わないで生きれるのだろうか。







きっと、誰かを通して
この世界と繋がっていると感じているからだ。







この世界において、この場所では否定されたけど
あの人の場所では私は私で存在して丸ごとおっけー
という感覚を、恐らく秘めているのだ思う。


ただそれは、その場では思うだけだ。





つまり


否定されて本当にすぐさまその人の基に行って存在が認められることを確認するわけではない

では、どこに確認の作業をするのか。それは、心の中だ。

心の中にあの人に認められている自分がいるから
心の中でその場所にたどり着ける。





そこがあるからせかいとつながっているし一人じゃないと思えて、
そういう見えない存在でも認められたという経験があれば、そいつが心の支えになって
ツラい時にはいつでも会いにいける。

そういう存在が健常者に入る確率が高いのではないだろうか






寂しさを根源とする
積み重ねた虚しさ無力感を抱え続けて生きている人たちは
それらを心で自分を支えてくれる人がいないから
自分の感情を全部自分で背負い込まなければならない。



それは強いからではなく
誰も引き受けてがいないという意味において。


そう、これが寂しさは寂しさを産むという負の連鎖なのだと思う。
誰もいないから、さらに重くなって
重さが寂寥感をどんどん増させていく





摂食障害と付き合ってきて
やっと自分の寂しさや満たされていない心が
過食嘔吐を招いているのだと、感じたくなかった感情とも
対話できるようになってきているというのに



それを受け容れたとしても、僕には寂しさという元凶を取り除く方法が
いまだに見つからない。寂しさを感じてるんだなぁと思うことで
楽になって部分はあるが、それゆえに、本当に寂しさと向き合わなければならない
状況なのだ。まさに、満たされない心の正体は寂しさなんだよ。これ、どうやって埋めようか??
という対処法を求められているから。

けれど、この寂しさは恐らく厄介な種類のものだ
健常者が感じるものとは深さが違いすぎる。なんというか、感じてしまったら
この世界から離脱したくなるほどの圧力を感じて、対処できないからだ。

そういう寂しさを感じないように、自分を感じないように、自分を無いものとして捉えるために
自傷行為としての摂食障害は、極めて僕を救ってくれていた。
彼のおかげで存在をかろうじて紡いで来た。

存在しないことで存在し続けることができたのだ。

ただ、その方法もそろそろおサラバしなければ、と思うようにもなっている

だからこそ、寂しさを癒す、代わりを見つけなければならない
そこにたどり着くまでには、まだまだ一日の中で、何回も
死にたい生きたいという心のエレベーターを体験することになるのだろう

寂しさよ、どうすれば埋まるのかな?どうすれば、小さい存在として大人しくして
僕を自由に解放してくれるのかな??


けどね、もしかしたら、その寂しさがなくなったら
生きていけないのかもしれない
圧倒的な寂しさのおかげで、それを埋めようと必死に解決策を模索する
ということが生きている意味になっているとしたら
この先、かなり思考のモデルチェンジが必要だよね。

寂しさを埋める作業が終わったら、人生で何が残るのだろう?