抜け駆け許さず皆で沈もう

負の伝統連鎖

ラ社の粉飾決算疑惑で最高裁への上告が棄却され
収監がほぼ確実視される堀江氏が
日本の現状について語ったインタビューを読んで
感じたことを綴ろうと思います。





いつも思うのだけれど
堀江さんの本質を見極めようとする思考に触れると
ボンヤリと頭の中で浮遊しているパーツたちが
いっきに集合体として完成されたがっているんだな
という事を体感できる。



今回も刺激触発されて、まとまったものになったのだと思う。

まずは、そのインタビューの一部抜粋

「みんなで貧しくなろうぜ」という”空気”

これはある意味、堀江さんの事件と裏表になっています。
東電のために、法律を作ってでも助けたい。でも、
堀江さんのようにこれまでの秩序に反抗する人は、
裁量の範囲内で最大限の罰を与える。浜岡原発の停止要請に関しても、同じような考え方でやっていますね。


堀江:結局「みんなで苦しみを我慢しよう」って感じなんでしょう。
「みんなで貧しくなろうぜ」みたいな。


保守系のおじいちゃん達って
だいたいそんな感じでしょう。

「冷房も使うべきじゃないし、日本中は贅沢しすぎだ」
と。「家にテレビが4台もあるのはおかしい」、とか(笑)。


僕は反論しますけど、こういう意見に反論しづらい”空気”がありますよ
ね。


例えば、小学校の運動会で、炎天下の中ずっと姿勢を正して30分も整列させられる。
でも、「そんな行為に何の意味があるのか?」と言えば、先生から鉄拳制裁をくらう訳ですよ
。おかしいと思いながらも、おかしいと言えない雰囲気があった。誰もそれに対して声を挙げない。

これが問題の本質で、小学校の時からそんな訓練を受けている。結果として、
みんなで貧しくなることも我慢しちゃうと思いますよ。この国の人たちは。我慢できない人たちは、「これは流石に有り得ない」と思って逃げて行く。

結果として、我慢できる人だけが残ってしまう。一時的に所得の水準が下がって、相対的に貧しい生活にもなるでしょう。



☆☆




人は変われない。

自分の価値観をそう簡単には変えられない。



なぜなら
自分の生き方を否定すると言うことは
自分が重ねてきた時間・経験をも否定するという意味を
孕んでいるからだ。

だからお年寄りに近い人ほど自分の意見思考を
とりさげようとしないのだ。




自分も我慢して苦労して耐えてきたんだから
あなたたちも耐えなきゃおかしいでしょ?甘えてるだけなんだよ
耐えて我慢しろよ!
若いんだからさ、若いときには苦労しなさい(私だって理不尽さを感じながらどうにか耐えたんだから
簡単にお金持ちになるなんて許せないんだから)。。





きっとこんな風に思っているのでしょう。
だから、執行猶予ではなく、実刑になってしまうのだと思う。組織、特に公務系のトップはみんな60歳を超えた人たちばかりで、苦労して我慢することが美徳であり社会人として最も大事にしなきゃいけない、去勢され感覚をマヒさせることで、適応して、やっとこの地位まで上り詰めた人たちばかりだ。だから、憎憎しいのでしょう、額に汗水たらさないで一生分でもありあまる財産を築いている若い人をみると。

ところで適応障害という病気がある。

意図的かどうかは別にして構成員に何らかの精神的「去勢」を施して既存の秩序を維持しようとする組織があります。ことに封建的対体質の強い組織の中には構成員に対してシゴキのような通過儀礼を課したりして人間の均質化を諮ろうとする場合もあります。こういった通過儀礼は往々にして理不尽なものであることが多く、

これに拒否反応を新下人間は、適応に失敗した弱い人間とみなされてしまいます。窮屈な環境や理不尽な強制に対して拒否反応を示すのは人間としてごく自然なことなのですが、組織の側からはストレス耐性が低い、と評価されてしまいます。
ここで適応障害です。適応とは外的環境に対して自分を変化させて、うまく合わせられるようになることをさします。
適応って自分を捨てて去勢して、その会社やその場所によって空気に馴染むことなんだよね。つまり、過剰に麻痺させて、その場に適応しているってこと。
そりゃー社会で生きていくためのスキルとか関係を築くには同じ場所で培うことも大切なのかもしれないけれど、それが努力なのか熱中なのかという違いは精神衛生上でも作業能率でも大いに影響してくると思う。


「朝まで生放送」での、ホリエモンとなんとかっていうシニア女性のやりとりが極めて象徴的だったのだが、虐待とか不幸な家庭環境とか他人を愛せないとか、そういう伝統と全部、構成している基底的な部分は一緒なんだと思う。

若い人がすぐに離職してしまうことについての話になったときの事。

「最初から自分のやりたい仕事なんてわかるわけがないでしょ。だから若いうちは同じ場所に留まって修行するがいいに決まっている。そこで耐えることが出来なければ、どこに胃ってもつかえない、社会人としては使えない奴だって言われるに決まっているでしょ」

これが、女性の言い分であった。

一方、堀江さんは
「その場所でだめだったら、また次の場所に可能性を求めたほうが、その人のためになるし会社のためにもなるんじゃないですか?嫌なところに居座ったって能力は発揮されなから」といういうような意見を言っていた。


どうだろう?上述したような対立構造がみえてこないだろうか?
自分たちは若いときに、生きる意味なんて考える暇もないほど社会に適応(我慢)することに全力だったんだから、(自分の過ごしてきた日々を否定したくないという意味で)あなたたちにも同じ苦しみを味わってもらわなきゃこまる。
そんな嫉妬が女性から見え隠れしないだろうか。
こういう価値観の押し付けが家庭でも起こっているような気がする。
良い点を取っていい学校に言って良い就職してほしいという親世代の価値観に若者たちは押しつぶされているような気がする。
そういう家庭環境でも、自分を麻痺させて適応させることのできる能力が有る人は、そのレールの上で得るものもたくさんあるし将来に役に立つことも有るでしょう。
ただ、みんながみんな、そううまく適応できるわけではない。
出来ない人を、社会で役に立たないと切り捨てるのは間違っていると。。



つまり、全部一緒なんだと思う。
自分の中で正しいと思って貫いてきた事を人は他人にも強要する傾向が極めて強いということなのでしょう。努力と忍耐をすることが善という心理システムを持った人は、他人にも努力をして我慢することが偉いんだから、あなたもそうしなさい。もし、それなしに社会で認められたり能力がついたりお金を得ることができたなら、私がしてきた努力と我慢は、一体なんだったんだろう!いやだ、そんなこと絶対認めたくない!あんなに苦しかったんだから。
こういう嫉妬が生まれてくるのだろう。
虐待も同じで、親は、その親の敷いてきた我慢という善を守って育ってきたし我がままを抑えて生きることが良いことを思って生きてきたのだから自分の子供も我慢して苦労すべきだって信じているのだろう。これが虐待が受け継がれていく根源であるし、日本の社会が衰退してきた要因の大きなウエイトを占めているのかもしれない。

やはり、この人の時間を奪い世界を変える時間を失ってしまうのは、公共の利益としても(一部の既得権益者にはありがたいのかもしれないけれど)損失が大きすぎるような気がする。