いじめ虐待


同情は距離を置いて観察し
そして他人であるという条件のもとで
きもちを理解するものである。


しかし共感は
その人物と一緒になるほどの
極めて近い感情の立場に立っているのである。


つまり理解という知的な枠組みを超えて感情が一体になるレベルを共感と呼ぶのです。私たち精神科医が患者名さんを目の前にして治療を始めるとき、そこには次第次第に共感性が漂わなければ治療はうまくいかないものです。
この「漂う」というのは、知的理解では不十分であるということはいうまでもない。知的理解を超えて共感するということが、相手の感情を支え、そして知らず知らずのうちに励ましていることになるのである。そしてそのことによりいっそう患者さんは自分の感情を表現し、自分の無意識のイメージとそれにともなう感情を思い出したりする。

共感性のない人のことを考えてみよう。ある病気やら性格上のゆがみやら養育環境やらえ共感性の低い人の場合は、こちらの顔をちゃんとみることはない。特に目を見ることはあまりない。そっぽを向いていたりすることが多いのである。表情に乏しい。そして手はいつも動かして自分なりの遊びをしていることが多い。一対一の対応をみつけようとしない。
このような状況では、誰でもが共感性が出来ていないということがわかる。共感性は、人へ無関心であるということと、温かみがないということと、人の気持ちを創造していないと思われるというようなことから成り立っているのが分かる。

共感というのは感情を基礎にしながら、相手のことを想像し知的に組み立てる構成力がなければならない。その意味で真の意味の共感性というのは8歳前後に前頭葉ができあがる頃に生じてくるものと考えてよいだろう。しかし、共感性の発生源は胎児の段階にも関係するのではないだろうか。つまり母親の情緒的な動き、あるいは母親の心臓の音がすでに胎児の段階で伝えわっており、それを母親のものとして認知していると考える。
したがって生まれてからも、母親が赤ん坊を抱いていた方が耳に母親の心臓の音が聞こえてくるだけに、それは胎児の時に聞いた音であり、そのことによって子供は安心するのである。この心臓の音、それからスキんシップなどが共感の大木にあると考えている。
しかし、このような共感は受信的なものであり、自分で能動的に構成した共感性ではない。それを得るには大脳の前頭葉の発達がなければならないのである。
人間の発達は他の動物や生物と同じように臨界期というものがあるようである。つまりその年齢で学ばなければ、ずっと学べないということである。



いじめ・虐待そして犯罪の深層-失われていく共感性-

いじめ・虐待そして犯罪の深層-失われていく共感性-