傷が続くということ


たとえ誰かのせいで不幸になったとしても人間は基本的に自由なんだから、その不幸から抜け出す努力をすべきなんだよ。死ぬまで誰かのせいにしていたら、なんのために生きていたんだか本当にわからなくなってしまう。



けれど、抜け出せなかったら?例えば自分が居なくなると他の人間が傷つくとか逃げたいと思っていても状況が許してくれない場合は?



それはやさしさと言う言葉に置き換えることもできるけれど、同時にその人の弱さでもあると思うよ。自分がいなくなって傷つく誰かがいたとしても、その人間はやっぱりまた自分の力でなんとかすることが必要なんじゃないかな。寄りかかるのに慣れてしまうと逆に精神的な足腰がどんどん弱って、よけいにひどいことになるし



あぁ、この考え方がきっと彼の最も根本的な核となっている部分なんだ、と思った。若いからだとか、まだそんなに傷ついたことがないのだとか、そういう否定的な指摘もしようと思えばできる。だけどそんな指摘にはきっとあまり意味がない。そこが変わったらきっと彼ではなくなってしまうかもしれない部分に触れたような気がした。



泣くことはストレスの緩和になるんでしたよね?たしか

ため息もどうだよ。だけど体内から吐き出さなきゃならないほど溜め込む前に相談するべきだよ。

ただ、彼と一緒に居るほうが君は幸せだと思ったんだ。僕はね、いつだって君が心配なんだ。苦しんだり傷ついたりしないで生きているかどうか。それが守られるなら僕の独占欲なんてどうでもいいし執着をみせないことを薄情だと取られてもかまわない。



あなたはいつもそうやって自分が関われば相手が傷つくとか幸せにできないとか、そんなことばかり言って、結局、自分が一番かわいいだけじゃないですか。何かを得るためには何かを切り捨てなきゃいけない、そんなの当然で、あなただけじゃない、みんあそうやって苦しんだり悩んだりしてるのに。それなのに変わることを怖がって、離れてもあなたのことを思っている人間に気づきもしない。どれだけ一人で生きているつもりなの?あなたはまだ奥さんを愛しているんでしょう。私を苦しめているものがあるとしたら、それはあなたがいつまで経っても同じ場所から出ようとしないことです。

人間は実は自分が思っている以上に多くのものに守られているし、その状況を切り離してしまうことがいかに困難か、君もいずれ分かるときが来るよ。

その出来事の直後には、とにかくショックが強すぎて、まだ自分の身におきたことをきちんと理解できませんでした。それに漫画やテレビの中の不幸な事件が実際に自分の身の上に起こったこと、それが最悪な出来事だったにせよ、そういうことに巻き込まれた自分の境遇が何か特別なように思えて、その錯覚が一時的にでも私の気持ちを高揚させていたのだとおもいます。だけど三日もたつと、急にひどい嫌悪感に襲われ始めました。特別どころか、自分が馬鹿みたいにちっぽけで何の価値もない、くだらない人間に思えてきた。それから翌月の生理が来るまで殆ど一睡もできなくなりました。眠っていると恐怖心が追いかけてきて、安らぎから弾き飛ばされる感じがするのです。苦しみが私自身を夢の世界にすら逃がしてくれないのです。だから遅れずに生理が来たときには、心底、ほっとしました。神様に感謝してうれし泣きすらしそうになった。だけど、そんな安心も束の間です。逆に子供ができたりしてなかったことで、あの出来事は私と犯人だけが知る事実で他の何にも証拠もなく、相手はこれからもノウノウと生きていくのだと考えたら愕然としました。

あの男に引きずり倒されたとき、私はとにかく死ななければいいと思いました。だからやっぱり実際には殆ど抵抗できなかったのかもしれません。実は正直、よく覚えていないのだけれど、そんな気がします。だって絶対に嫌だという嫌悪感よりもそのときは痛い目や死ななければいいって服従する気持ちのほうが強かった。本当はそれ以外にほとんど考えてなかったのです。もしかしたら相手を怒らせないように私は媚びるような態度さえ取っていたのかもしれない。そう思った時はぞっとして、トイレで何度か吐いたりしながら、かならず朝まで眠れなくなります。眠ろうとするとお前はあんなやつのすることを受け容れようとしたって、みっともない人間で責任は自分にあるんだって、そう責められるような気持ちになる。そうなると、もういても経ってもいられなくなって無意識にふっと何かを考えてしまう時間や眠るのがこわくなるのです。
あのとき、私はすっぱりあきらめながら、ああ世の中はこういうことが本当にあるだ、そして私にも起こるんだ、と妙に悟ったような気持ちになりましたね。もしかしたら、あの気持ちが絶望って言うのかもしれないなんて、後から思ったりもした。友達にはケガのことを坂道を下るときに自転車で転んだなんていって、ドジだなぁ、なんて笑われて、私は誰からも疑われなかったことに心の底からほっとしたけれど、なんだかそれで本当に全てから自分が切り離されたような気もした。
だけど夜道は怖かった。本当にいつも怖かったんです。必ず逃げるように走って帰った。部活で遅くなったとき、いつもあなたが送ってくれて普通にしていたけれど本当は命の恩人みたいに感謝してきました。だけど一つだけごめんなさい。そんなあなたを前にしているときでさえ、私の中にはいつも恐怖があった。あなただっていつどうなるか分からない、そしてもし彼がそんな人だったら、それは一度ひどい目にあったのに二人きりになった私が完全に悪いんだって、そんな風に考えていました。もちろん一方で冷静な頭の中は分かっています。あのときの男が全部悪くて、世の中にはそういう人が確かにいるけれど私を守ってくれる人もかならずいるのだと。だけど全てをあの男のせいにしたとき、やっぱり私はそんなやつを、いくら死にたくなかったからといって一瞬でも受け容れようとした自分をおぞましく思うのです。そして何もかも堂々巡りを始めるんです。
私はだんだん、何も感じないように、考えないようにする癖がつきました。
そして私は妙な行動を取るようになりました。あれから私はケガをすると、自分で手上げをしているふりをしてピンセットでガーゼをつまみ、なぜか傷口をわざとひろげるようにしてグリグリと強く押し当ててしまうのです。どうしてそんなことをしてしまうのかは分かりません。そうやって痛みがピークに達するまで傷つけてからじゃないと、ようやく本当に手上げを始めるということがよく分からないのです。私は自分が壊れてしまったように感じます。最近では朝、起きて顔を洗ってご飯を食べると言うことさえ苦痛です。そういう基本的なことが一番つらいです。母も私の不調には気がついていて、だけど何も語ることができない中、上手く話が通じなくて何度か口論になりました。時にはイラダチがピークに達して突発的に家をでてしまうこともあった。それでとうとう表面的には母ときっちりと話し合って、無理に受験する必要はないから、とにかう卒業までなんとかこうこうには通うことを約束しました。そして来週ぐらいから一度、心療内科に相談に行くことが決まりました。
だけど私は多分、その場でなにも語ることができないと思う。今、お風呂から出たら膝が刺さったあたりがシビれるように痛んできて、急に全てを言いたい衝動に駆られて、だけど、この気持ちもきっと明日には消えて跡形もなくなっているのでしょう。この手紙をあなたに渡せるかどうかも書いている時点ではわかりません。
こんな重たい話を長々とごめんなさい、あなたにはずっと事情もわからぬまま心配をかけてしまいましたね。だけど、これが全てです。最後まで読んでくれて、本当にありがとう。

恋という感情は恐ろしい。気づかれないように少しずつ心の中に忍び込み、いつか名前を呼んでもらうのをじっと待っている。





ナラタージュ (角川文庫)

ナラタージュ (角川文庫)