永遠のとなり

うつは私も経験者なんですよ。といっても随分と若いときのことですけれど。


へぇ、と小さく言う。自分自身がうつ患者であっても、やはりそういう告白を聞くとどう反応していいか分からない。きっと自分も病気のことを告げるたびに相手をこんな気持ちにさせているのだろうな、と考えてしまうだけだ

私の場合は抑うつ状態に陥らざるを得ないような大きな原因があって、その原因がなくなったことで快方にむかったのですけれど。あなたも何か原因があるのなら、とにかくその原因を消してしまえると一番良いと思います。

原因を消す、ですか?
どこか物騒な言い方に聞こえて、つい聞き返してしまう。

そうです。なくすんじゃなくて消せばいいんです。例えば、すごく意地悪な人がいたとして、その人のせいで落ち込んだときは、その人と和解しようとなんてしないで、その人と二度と顔を合わせないようにするとか、そういうことですけど。なんだかちょっと分かりにくいですね。

彼女はそういって自分からおかしそうに笑った。

うつ病になったとき、どうしてそんな病気に罹ってしまったのかを考えずにはいられなかった。医師の言うことはわかりやすかった。何事にも真面目すぎる、責任感が強すぎる、プライドが高すぎて小さなことで傷つきやすい、細かなことを気にしすぎる、これという趣味がなくてストレス発散方を知らない、といったうつ病気質に家族や会社での大きなストレスが加わって当然のように発病したのだ、と。
そういう明快な説明だけで納得できる患者など恐らくいないだろう。
私は考えた。いままでの人生とは何だったのか?私は一体どこでどう間違ってこんな羽目に陥ってしまったのか。
いつの間にか漂着していた精神科病棟の病室で、つくづく自分の人生が味気なくつまらないものであることを痛感せざるを得なかった。そして自分でも意識してこなかった意外な内面の真実に突き当たった。
私は私という人間のことが本当に嫌いだったのである。そう気づいた瞬間、何だそうだったのか、と全てが了解できる気がした。

47年間もの長きに渡って嫌いな人間と一緒に生きてくれば、誰だって心に陰鬱な陰りを生じさせてしまうのはむしろ当然ではないか。
むろん、少なからず誰にだって自己嫌悪というものはある。何も私だけが特別というつもりはない。ただ、その自己嫌悪が他の人たちよりも幾分強すぎたのだ。そのわずかな自己嫌悪の大きさの差が、しかし、大きな結果の差へと結びついてしまった。それはなぜなのか?次のような譬えをはたと思いついた。

人生はいわば階段や梯子を上るようなものだ。みんな一段一段、自分の前に用意された長い階段、梯子を渡っていく。一段上るというのは、その段を強く踏みつけ、全体重をかけるということでもある。問題はその踏みつけ方にある。自己嫌悪の強い人間は一段踏むたびにその階段を踏み壊してしまう。梯子を思い浮かべるとしたら、足をかけていた壇を次の段に上がるたびに一本一本折り続けてきたということになる。
この譬えは強く腑に落ちるものがあった。

確かに私という人間はいつもいま現在も自分から逃げているところがあった。生き延びること、前進するということはそれまでの自分を捨て去り、常に新しい自分に為り変わっていくことだと信じていた。そうした考え方は一見前向きのようにも見えるが、実はその反対だ。為り変わるとは、結局、それ以前の自分を全否定することに他ならない。過去の自分は現在の自分よりも駄目でつまらないものだと規定して生きてきたのだ。
これは極端な捉え方のようだが、病室のベッドでクリーム色の天上をじっと睨みながら、何日も何日もそれまでの47年間の自らの来た方をもく年始手、ようやくたどり着いた結論がそういうことだった。
だからこそ、私は私のことが本当に嫌いでも、いまのいままで平気な顔で生きてこられたのだ。だが、あくまでも階段をのぼり続けている限りにおいて可能なことであった。

一度、ぐいと頭を押さえつけられ、一つ上の段に足がかけられなくなってしまうと、もう体勢を維持するすべがなかった。何しろ一つ下の階段も、そうしていまたっている段でさえも、自分で踏み壊してしまっている。あとはただ何かの拍子にバランスを崩してしまえば真っ逆さまにひたすらおちていくしかない。

おちていく私には、どこにもつかまることの出来ない過去がない。
自らの過去をあまりにナイガシロにし続けていたのだな、と悟った。現状への不平や不満ばかりを募らせて、いつも性急によりよい自分になろうとしすぎていた。だからこそ、こうしてずっと嫌いつづけてきたかつての自分自身たちから強烈なしっぺ返しを受けているのだ、と。それからの私はできるだけ現在の自分を認められるように心がけた。
過去の自分もなるべく肯定的に思い出すように努めた。決して自己嫌悪に陥らないように気をつけた。そうなりそうもないときは、思い切ってよそに関心を振り向けるよう習慣づけた。いつでもどんなことがあっても自分だけは、今の自分というものを根本的に愛し認め許すようにしようと言い聞かせ続けてきた。そうした他愛もない子供じみた自覚だけが自らの病気を徐々に癒してくれる、と考えるようになったからだ。









自分ひとりが幸せになるんじゃなくて周りのみんなも幸せになって欲しいと思う気持ちもわからないでもないけれど、ちょっとそれは贅沢すぎるのかも。

人間は誰だって自分が幸せになるだけで精一杯なんだ、下手したら妻や息子の幸せにだって手を貸してあげられない。ただ、誰にでも幸せになる権利があると思う。

けどそれは自分は不幸でも構わないから他人が幸福であれば、それで良いという考えは、どう考えても不自然でしかないという理由で、そういう権利は誰にでもあるはず

人間は死に掛けたときは自分で自分を守るしかないし他人の事なんか本当に動でもいいんだって、そう思ったって全然構わないと思った(心の病を経験して)それは自分が一番大事というのとは、ちょっと違っていて、自分の命が脅かされている時、人は、とことん、自分勝手になっていいと思う。自分を守れて始めて、他人を心配する権利が得られるのだと思う

人間は自分というこの狭苦しい、別に面白くも何ともないような弱っちい世界から
どうしても抜け出すことが出来ないだ
だから、枠にとらわれないように、幸福は人それぞれのそういう折り合いの付け方でしかないんじゃないかな










永遠のとなり

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