普通に生きられない??

社会的背景

少し変わっていて
そのほかの部分に人並み以上の能力があったり
その普通でない部分が微笑ましくあったときには
彼らに普通でない部分が否定されるどころか肯定的な表現になることがあります。


このようにカッコつきではあるけれども
普通でないことが肯定的な表現になります。


しかしそれがあまりにも極端に変わっていたり
世間一般の常識を逸した言動を繰り返したりするときには個性的というラベリングをすることはなく真の意味で変人というレッテルを貼るのです。一方で変わっているという価値基準は非常に曖昧で
その人の置かれている状況や周囲の人間関係によっても
常に変化するもので
またパーソナリティーによっても変わってきます。

さらに状況やパーソナリティーそのものが相対する
人間によって変化し経時的な修飾も受けるのです。

つまり、個性というのも、あるいはパーソナリティーというものを明確に規定することは困難なことなのです。





境界性の特徴を表す表現として、自己同一性障害
という言葉が境界例という障害が報告されてから用いられてきました。

さて、その自己同一性とは、どのようなものなのでしょうか。


一口に同一性といっても漠然としてわかりにくいので
自己同一清祥がとともに説明を。。


自己同一性とは、その人が社会の中で暗黙裡に要請される役割を、その人なりに演じていくことのできる能力と言えます。会社の中で、家庭の中で、友人関係の中で、営業マンとして、父親として、日本人として、それぞれの役割を、それほど意識することなく自然に果たしているのです。すなわち自己同一性とは、現在私たちが生きている社会において、様々な役割を演じながらも自分は自分である、という認識が揺るがないことです。
しかし境界性の人は社会の中で求めらる役割をこなすことが明らかに困難なのです。そして、しばしば社会的に逸脱した行為をします。たとえばカジュアルセックス、家庭生活の崩壊、家族不全、長続きしない就労、対人関係のトラブルの頻繁、などです。さらに、境界性の人はいくつもの役割を同時にこなすことができません。さらに彼らは一つの役割であってもそれを続けていくことにも困難を感じています。つまり役割を同時にこなすことができない上に継続することもできないのです。だからこそ社会的に逸脱した形を取らざるを得ないのです。

また、自我境界の曖昧さ、という言葉も境界性人格障害の人を表すのにシバシバ用いられています。しかし私はこの曖昧さ、という言葉は、字義通り、非常にわかりにくい概念だと考えています。自我強化いの曖昧さ、とは自分自身とそれ以外のものとの境界が分からなくなることであり、認知症の末期や統合失調症の急性期において、もう何もかも分からなくてそれこそ自他の区別無く排泄物を塗りこむような混沌とした状況を射すものだと私は考えます。つまり、行動主体として自分がわからない状態だと思うのです。この点は実は境界性の人と違う点です。境界性の人はよく、自分が無い、と訴えます。けれども自分が無い、と考えている自分は確かに存在しているのです。考えている自分に対しての疑念はもっていないのです。ここが決定的な違いであり、この点から境界性の人に対し、自我境界の曖昧さという言葉を用いるのは適当ではないと考えています。












普通に生きられない人たち 私たちは人格障害とどうつきあえばいいのか

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