生きてく弱さ




希望と幻想とを混乱させるような、
間違った前向きさを与えるのは、罪にはならないのだろうか。




「間違った前向きさ」というのは
現実に則していない、ある種の変身願望のことだ。





















自分の弱点を克服して、
マイナスを完全なプラスに替えていける人など、どれほどいるだろうか。









そんなパワフルな方々は、
せいぜい15%以下の限られた人たちだろう。
残念ながら。


そして変身した自分に出会えた15%の人の影には、
挑戦したけれど変われずに挫折して言った人たちだって大勢居るだろう。



その人たちの傷を思うと、心が痛む。
間違った前向きさを取り入れて実現可能だと思い込んだ。
あるいは、思い込まされてしまったのだろう。







かわいそうに。















だいたいの人は、自分の弱点を解消しようとして必死になろうとも
弱点を棄てることは出来ない。
ましてや、プラスに変えることなど出来ない。



じゃあどうするのかというと、弱点に振り回されながらも、
上手く付き合っていく方法を身につけていくことで
妥結する。



前向きで現実的な妥協をするのだ。





現実的な妥協と言うのは
弱点を取り除く時間と労力よりも、うまく理想の自分と弱点を持つ自分との
折り合いをつけながら生きていく事。





弱い自分は嫌だ!絶対に変わってやる!!


ではなく、


弱くてダメな自分でも、まぁ仕方ないか。
って弱さを受け容れていく。


やれることやったし、それなりに苦労も努力もした。
それでも克服に至らなかったのだから。
もはや上手く付き合っていくしかないのだろう。



っていう
悟りにも似た、大人の結論を出す。








なぜ大人の結論に至る人が多いのかと言えば、
生きていかなければなら無いから。



人生は100mや200mの短距離走ではない。
イチイチ、一瞬一瞬の場面、一つの山に全力を使っていては、
うまく生きれないことを人間は賢いので学習していく。






そういう風に”今”に執着しすぎずに生きる。






そうすれば、
弱点だらけの自分を方向転換するよりも、
そういう自分を受け容れて、
自分と言う枠の中で手に入る幸せを噛み締めて生きていく方が
長距離走の人生においては、
豊かになれるって自分を納得させることが可能になる。















私は絶対変わる!夢を掴む!成功する!!
発する言葉で自分は作られていくから、ポジティブな言葉を使おう!!!
言葉を変えれば習慣が変わって習慣が変わると性格が変わるんだよ!!


私にも出来るんだから、あなたにだって出来るわよ!!!!












っていうみたいな、
自分を棄てて新しい理想の自分になれると信じている人、
あるいは、信じさせたられている人たちにペースを乱されて
実らない努力、高すぎる理想、に労力を使って
心を壊し身体を壊わしてしまうのは
あまりにも空しすぎるし。



そんな犠牲者をこれ以上輩出したくない。







理想に届かなかった自分にさらに絶望したり、
等身大の自分で過ごしていれば得られていたモノを失ってしまうのも
大きな痛手だ。











弱い自分から脱皮することが強さの象徴だ!
みたいな風潮があるけれども、
本当の強さってのは、
残念だけど沢山の弱点を抱えているダメダメな自分を
受け容れる事なのではないだろうか。






弱い自分を蹴っ飛ばすのではなく、
ありのままの弱さを受け止める強さ。


これこそが、生きていく上で
本当に大切な”強さ”なのではないだろうか。







人は自分の限界を楽に越えて努力できたり我慢できたりする。


自分でも、「あの時の自分は、あの状況に、良く耐えられたなぁ」って
振り返って思う事って、結構あると思う。





だけれども、
人間は自分が思っているよりもずっと壊れやすい生き物でもある。



それこそ、弱点だらけで力不足を痛感する場面に遭遇する機会の方が
明らかに多い。




そんなんときに、弱点を取り除く強さよりも求められるのは
弱さ抱えたままでも、それなりに壁を乗り越えていける強さ、つまり、

弱点を持っている自分を受け容れる強さを持っているのではないだろうか。

















信念と自信を持って、夢や目標に向かう人を止めようとは思わない。
むしろ、応援したい。
限界を突破して生まれ変わる姿は美しいものだ。




しかしながら、誰もが限界を突破できるほど、
現実は温かくない。


弱点という課題を強さに結び付けられる人など
ほんの一握りだ。




大抵の凡人は、悲しいけれど
弱点は弱点のまま、一生お付き合いしていかなければならない。

弱点だらけでどうしようもない自分と。









だとしたら、克服できない弱点を嘆くより
弱さを受け容れていくことこそが、人間に必要な強さなのでは無いだろうか。





いつの日も弱さ庇いながら生きるのが、
人間の人間らしい姿なのではないかと思うのだ。









ただ、弱さを克服できない自分を受け容れる事が出来るようになるには
それなりの時間が必要だ。



その時が来るまでは、大いに弱点を抱えた自分を変えようとして苦しむ時間も
必要なのだと思う。


弱い自分を抱えていくと言う折り合いが自分自身と付くまでは
もう少し、苦しみの時間も、今のあなたには必要なのかもしれない。











けど、心配要らないぜ。
時は無情なほどに全てを洗い流してくれる



っていう桜井さんの言葉は間違いないから。




時間が、あなたの最強のサポーターになってくれるから
安心して今を苦しんでください。




乗り越えたなら、いつか笑い話として
多いに盛り上がりましょう。













強さを創造するよりも、弱さを受け容れることで
世界は、あなたにとって、ちょっとだけ優しくなってくれるかもしれない

不機嫌のスイッチ / 運命の人




女性の不機嫌のスイッチは不意に押される。











女性が理由を言わずに怒っている。
理由を聞いても別に、と。





けど、理由が本当はある。









彼氏が押したのかどうかはまったく別にして
スイッチを押されたことに怒る。




けれど、不機嫌のスイッチを(彼氏かその他の人に)押された自分の状態に気づかずに彼氏が振舞っているのは、
女性はもっとむかつく。








女性はタダ気分が悪いときがある。
彼氏が与えた影響かどうかは関係ない。
けど、誰かに怒りをぶつけたい。




しかも、そこには明確な理由なんか無い。
だから、男性側に解決策が無い。




問題が存在しないのだから、その解決策はない。







男性に怒っている理由を聞かれるけど、
女性はそれもむかつく。
だって、理由なんて無くて、
はっきり言えば、ただ八つ当たりの対象になって欲しいだけ。


八つ当たりさせてくれてればいい。
理不尽だとしても、サンドバックになってくれればいい。







そして理不尽な不機嫌を表現している自分を見て、
男性がオロオロしている姿がいい。
困ってくれているのがいい。
そこに愛を感じる。





こっちが怒っているときに、放っておくのは愛が無い証拠。




だから、怒っている女性の姿を見て、
どうにか、なだめたい、ご機嫌取りたい、と行動している姿をみるのが
女性には痛快。













冷静になってから話そう、というのは解決脳を持つ男性としては
至極正しい選択のように思えるが、共感脳の女性にとっては致命的な対処。





(理不尽で責任が男性に無いとしても)不機嫌な自分に向き合って、
不機嫌さ荷を一緒にどうにかしてくれようとする姿勢にこそ、
女性は愛情を感じる。









失敗が無くとも、責任を負わなきゃいけないこともある。
会社と一緒?

これが、器の大きさの判別基準だったら
男性も、結構大変ね。






藤田麻衣子 恋だ愛だ 参考)










☆☆☆











運命的な出会いって、一瞬で引き合うようなイメージを持っている。
けど、出会ったことはそもそも運命なのでは。






はじめはビビット来なくても、気づいたらそばにいてくれて
付き合ったり結婚したり子供産んだり。




そうして後になって、事後の認知として
この人が運命の人だったのかもって、思う事はできる。






運命は結果論?








運命の人は出会うだけでなく、この人は運命の人だって決断することが
必要。そうした決断が運命。






深く関わる人なんて、人生でそんなにいない。
だから、一対一で深く関われる人のなかに運命の人が?




運命の人は出会うのではなく、作られていく。






(奥花子・裸眼でトーク 参考)

介護さん





結局は、言葉に傷つき言葉に救われるのでしょう。。










過日、認知症を患い介護度5の祖母に会いに行った。


ホームヘルパーさん、デイサービス、ショートステイ、など
点数を駆使してなんとか、自宅で看ている状況だから、
なかなか会えるタイミングも限られている。


祖母と同居している祖父と伯母だって
それぞれの生活がある。24時間一緒にいてケアをしていたら、
二人のほうが先に倒れてしまうかもしれない。





ホームに入れる、という選択肢もあっただろう。
介護度も最大だ。
多少の出費はあるかもしれないけれど、
それでも、時間と体力には替えられない。

食事を食べさせるのだって、体力的、そして精神的に
かなりの徒労感を覚える介助の一つだ。



けれども、二人は自宅で、DSやSSを利用しながら
自宅での介護を選択した。



自宅で看る。というのは美談のように思える。ということは、
施設に入れることに対して、まだまだ罪悪感のようなものを
抱いてしまう、という旧態依然の価値観から、
私達は、まだまだ逃れられていないのだろう。

家族なんだから、家族が看るべきだ。責任を持ってのような…。


しかし、どれだけ重要で大切な人の介護であっても
可能であれば、家族であっても、介護に積み上げてきたものを
全て奪われるようなことは、なるべく避けなければならないと思う。










仕事を持って、それなりに責任ある立場にある伯母にしてみれば
神経をすり減らすだろう。

祖父には祖母を支えるほどの体力は残されていない。
腰が悪くて自分では座ることも出来ないから、食事をさせるには
座位にさせなければならい。



誤飲が心配されるので、
僕達のように寝ながら食べるなんて事は絶対にしてはいけない。
「ゴックンして」と諭しながら、最大限の注意を払い、
食事を介助し、脱水にならないように水分を与え、服薬を促す。



















医師からは


「薬を使って寝たきりにするか、
 暴れさせながら生かすか、どちらを選びますか?
 今は、そういう薬を使うことだって珍しくはない時代ですよ」



という、
家族の気持ちを最大限に考えていて、家族の気持ちを最も踏みにじっている言葉を
与えられたらしい。



どちらの選択も厳しいけれども
祖父と伯母は、後者を選んだ。





心の内は聞いてないが、
英断であり困難への正面突破でもある選択だったと思う。






薬で1日の大半を寝かしておく、という選択肢はハタからみれば
冷酷極まりないように思えるかもしれない。



しかし介護者が被介護者と一緒に倒れてしまったり、現実を犠牲にして
自分自身の人生を顧みることなく介護の為に生きるのは、
それはただの正義感でしかなくて、現実的ではない選択なのかもしれない。



そういう意味では、薬で寝かせて呼吸をさせておく、という対処だって、
非人道的だ!!なんて、糾弾することがどうして出来るだろう。









それでも、自宅を選らんだ二人は尊敬に値するって思った。

自分の妻、自分の親、だからこそ、最も介護が難しい人だということも
十分に考えられる中で、
その人らしく生きる、QOLのことだって加味しての決断なのだろう。



生きてるって、心臓とか呼吸の鼓動以外のところにあるのかもしれない。
って、そんなことは当たり前だけど、
そんなことを思わずにはいられなかった。














介護食を食べさせながら、擬音を発して
早く口に食べ物を運ぶように指示する祖母をみて、

「なんか、子供みたいだね」と単純に思ったことを僕は口にした。



そのときの伯母は、諭す風でもなく、ごくごく自然にこう言った。



「言葉にならない言葉を発して、何かを伝えようとしてるんだよ。
 確かになんか、命令されているようで気色悪いって思うかもね。
 
 けど、私達だって、小さい頃は、そういう風にぱぁーぷぅーという
 言語になっていない訴えを繰り返していて、それを受け止めてもらって
 育ってきたんだよ?
 やってもらったようにはうまくはできないかもしれないけれど、
 
 それでも、やってもらったことを、お返ししているだけなんだよね。
 だから、ちょっとツラくて面倒なときもあるけど、全然苦にならないんだよね。」




どれだけの事をしてもらって自分の今があるのか。
どれだけ、感謝という言葉の意味が分かっていないのか、強烈に痛感した。



いっぱしの事を口にしているつもりでも、
本質的な事は、何も分かっちゃ居ないんだって、そう思ったんだ。















子育てと介護の最大の違いは、「育つかどうか」だ。





子供は日々、色々なことをものすごいスピードで吸収し、成長していく。
成長していく姿は、世話をしている側にとっては、
自分の行為にたいする報酬が得られて、満足感を得られるし、
世話すれば育つのだから、楽しくて仕方ないだろう。




ただ、介護は、残念ながらそうはいかないケースが多い。
特に認知症は現代の医学では進行を食い止めるのが最先端であり、
根本治療には至っていない。



自分の行為にリターンがあるかどうかで、
やる気とか貢献したい寄与したい、という気持ちに差がでるのは
人間として、恥じることではない。人間は感情に生きる動物だ。














いずれにせよ、そう遠くない問題なんだなって、
現実感を改めて与えられた。




思い通りになってくれないのは同じであっても、
子育ての方の世話は、
いつかは手がかからなくなるときが来るんだって、
大きくなっていくことに寄与できるんだって、未来を思う事で
救われることがあるだろうが、
介護からの解放、それって…








時間は有限とか、
後悔は、後に悔いるから後悔とか
失うまで人は大切さに気づかないとか、

手垢のついた言葉の意味を日常に染み出させてくれたような気がした。










本当に伝えなきゃいけないことは、
今、伝えなきゃいけないのかもしれない。

べすとふれんど












「世界で一番に幸せになってほしい」













って西野カナさんの歌詞にもあるけど、女性同士の関係性って本当に
独特だなぁって思う。























最も如実だなぁと思う場面は、



結婚式の友人代表のスピーチで
(花嫁のことを)幸せにしなかったら大親友である私が、
絶対に許さないですから!!





みたいな言葉が出てくるのは
(一応、男性が女性を幸せにするみたいな文化の日本であったとしても)
男同士では相手の幸せの責任までも、持てない気がする。
















男性がダイバーシティ(多様性)を認め合って
仲を深化させている傾向があるのに対し女性は




同じ、同質、似通ってる、近しい、


そういった”自分の側”にいる人、つまり
同じような感覚や価値観を共有しあって認め合って
時間と空間を共有している傾向があるように思う。





同じ部分、似ている価値観で集まって仲良くする。
似ていて自分と同じ、だからこそ
自分の分身に近い意識を持っていて、
親友の幸せを本当に自分の幸せのように感じるのだろう















このように
女性が女性同士における半同一化や境界線の曖昧さ、
本当に相手の感情が自分の感情であるかのような
近さ、物理的にも心理的にも、かなり神話状態になるのは

恐らく、男性が猟にいっているあいだ、
何家族かが集まって寝食を共にしていたからなのだろう。



男性が居ない間に他の家族の女性と仲良くして、
自分の生活、自分が所属しているコミュニティーの和を保って、
生きていかなければならなかった名残なのだろう。








和を保つには個性よりも協調性、つまり
違う要素よりも同じものを(自分を抑えてでも)
共有していかなければならなかったのだろう。








そこから、女性は同じもの、似た要素で集合しあい、
自分に近い人、近いからこそ自分の事のように
幸せにしなかったら私が許さないって言う言葉が出てくるのではないだろうか。
















女性同士の友情は
ある種の打算さがあり、
嫌い同士であってもニコニコしあうような
灰色の世界であり、男が出来れば簡単に優先順位が
入れ替わったしまう確率の高い脆弱性を持っている。





だからこそ、女性同士がホンモノの友情を結んだときには
ものすごい絆を生むのだろう。



それこそ、一生独身でも老後は一緒に暮らそうね、のように
自分の底を隠さずに、全てをサラケだして共有できるのだろう。












嬉しいときは自分の事みたいに喜んでくれて
ダメな時はちゃんと叱ってくれる存在




こういう親和性は女性特有のものなんだろうなぁ
男同士だったら、ちょっとむさい気がするw


けれども、深い深い場所でのつながりは
羨ましいほかに何ものでもない。





幸せな仕合わせ

成功とは、自分が出来ることで相手に影響を与えること。







自分が成したこと(思考、行動)に一人でも多くの人が反応して賛同してくれ、
共感したり影響されたりしました!という声を得ることが成功であるような気がしている。







それはつまり、自分が世界に対して何かを与えているという自己効力感を持つことであり、
自己効力感を感じている人ほど、自分を幸せだと思えているのではないだろうか。




自己効力感を感じられる人ほど、
恐らくは幸せを感じることが出来るのだろう。










自己効力感の影響力の指標は



人数×深さ 


という公式が成り立つかもしれない。





どれだけたくさんの人に反応を得られるような事を成すよりも、
たった一人、影響を与えたいと思える人の人生に深く寄与できるなら、
それもまた大きな成功といえるだろう。






仕合せは、良くも悪くもそういうなりゆきであること。
仕合せの先に幸せがまっていたとしたら
人生は素晴らしいものになるのだろう。









縦の糸はあなた
横の糸はわたし


織り成す布はいつか誰かの傷を癒すかもしれない


中島みゆき・糸)




僕のした単純作業が
この世界を回り回って
まだ出会ったことの無い人の笑い声を作っていく

そんな些細な生きがいが日常に彩を加える


ミスターチルドレン・彩り)







この二つの歌詞も示唆しているように、
人間は、誰かの為に何かを出来ている自分を感じていたい生き物なんだ。







今関わっている人だけでなく、未来に会うべき人、
間接的にしか出会わなくても、



その人たちを自分が支えているんだっていう


効力感、重要感を感じていないと、
自分の生に不安を覚えてしまうのだ。






常に自分はここにいて誰かの役に立っているんだということを
周りにも、そして誰よりも自分にアピールしていかなければ
心が不安定になってしまい、息苦しくなってしまうのだ。


自分で自分の価値を感じるには他者の評価、他者からの承認が
どうしても必要なのだ。




そうして、自分はこの世界、自分が関わっているコミュニティにおいて、
なにか影響力を与えている、貢献している、存在意義があるんだって
思える人ほど幸せを感じているのだ。












この、自分は何かに影響を与えている支えている、という思いが
自分を支えることを「自己重要感」と言うそうです。




人は誰でも、認めてもらいたい。
だから頑張るし、評価を得たいと願います。



自分という存在が重要であると感じたいんです。



みんなが満たしたいと願う欲を、
満たしてもらう側ではなく、満たす側になる。
そうすると、不思議に影響力が出てくるんですね。












情けは人の為ならず、という言葉がありますが
結構、核心を付いた言葉なのだ。



つまり、相手を満たそうとすること、相手が満たされた姿を見ることで、
自分が満たされていく。




そう、自分が影響を与えて喜んでくれる人がいることで
自分も慶ぶことが出来るのだ。



相手が困っていたら相手の困りを改善することで
相手を喜ばせたいと思うのと同時に、
解決した自分の力(影響力)を感じれるからこそ、人は人と関わることをやめないのだろう。





なにも人は利己的な存在などと古びれた言葉を放つつもりはなく、
ただ誤解を恐れずに言えば、人は人をお互いに上手に利用しながら、
自分の存在感(効力感、重要感)を感じて生きているのだ。




だから、人と大きく関われている人のほうが
相対的には幸せを感じながら生きれている人が多いのではないだろうか。




自己効力感というのは自己重要感、つまり
自分の存在が必要なものだと感じられるときに満たされる欲求なのだ。











人間は未来を考える唯一の動物です。
今を生きる必死さだけでは、自分を支えられない。
未来でも、しっかりとした何らかの存在意義を持っているであろう自分を
創造しなければ、今の自分を支えていけないのだ。







育児不安と一口にいいますが、その中身を分析しますと、
子供や育児についての懸念や不安はごく一部で、
それ以上に育児だけしている自分の現在と将来についての不安や焦燥、
不満の方がずっと多いのです。




親としての責任に縛られる、親ではない自分の生き方も確立したいができなくて焦る、
友人と会う機会がなくなった、自分の用事ができない、ものごとが楽しめなくなった、
などです。



未来を見るからこそ、今に全てをかけてイイのかどうか不安になる。
母親という直線上には、女性として生きる道と必ずしも繋がっていないことが多い。
また、コースチェンジをしたりゼロからはじめなければならなくなってしまう



未来の為に生きていくんだけど、
未来の為に今を完全には楽しめない。



なんとも不思議な感じだ。




未来の為に必死で今を生きているのに
その未来の為に今を犠牲にしている。








今という時間だけの自分だけでは
人間は満足できないのかもしれない。
自分を支えられないのかもしれない。





未来にも自分が、何か影響を与えている姿を想像しなければ
自己重要感の不足によって、現実に押しつぶされてしまうのかもしれない。









誰かを温めうるかもしれない自分。
誰かを笑顔に出来る自分。






そういう、なんというか現在という時間軸以外にも
誰かに影響を与えているであろう自分、
未来にも影響力がある自分を創造していないと
自分を支えきれないのかもしれない。




誰かの為に何かを出来る自分を感じていなければ、
人間は今を踏みしめられない。


だから、人は人を求める気持ちは止まないし
人は誰もが一人では生きていけないのだろう。




誰かに証明証をもらいつづけなければ、
自分の存在が不安で不安で仕方ないんだ。



だとしたら、
根源的な存在に対する不安は、
生きていくための最大の材料になるのだろう。






不安なのは、あなただけじゃない。
不安だからこそ、僕達は誰かを求め、求め合うのだ。








寂しさも不安も、豊かになる為に
必要な感情なんだ。



そんな感情を持っている自分を責めるのは、やめて欲しい。






時に傷つき絶望を味あわせてしまうかもしれないけれど、
見方と使い方を少し変えるだけで、
豊かな人生を送る、それ以上のない材料になるのだから。





マイナス感情を感じる自分を責めるのは間違っている。
生きている証を否定していては、
生きるのはツラくなるだけだ。

男女から親同士へ









産後、胸を触れるのがイヤになったり、
セックスに積極的になれなくなるというのは、
よくある話だという。











搾乳中の胸を触れるのは、苦痛でしかない。



産後一ヶ月検診で、避妊は必要ですが、もうセックスしてもいいですよ、
と医者にいわれたろき、まるでセクハラをされたかのような嫌悪感に包まれ、
言葉を失った。




金原ひとみマザーズより引用)




















これが大抵の女性に当てはまってしまうとしたら、
男性は、ありあまる精力をどうしたら良いのでしょうか?








なぜ、男性は女性に比べてセックスをしたがるかというと、
その答えは、非常にシンプルです。



男性は、一生中生殖能力があるから一年中したいということです。












女性は一ヶ月のうち2日くらいしか生殖能力がないので、
その2日間だけはしたいのですが、
それ以外は別にどっちでもいいということになります。





ただでさえ、男性は女性よりも日常的に
セックスをしたいと思っている。



それでも、たとえパートナーが居たとしても
毎日求めると機嫌を損ねるのではないかとか、相手の体調、気分に配慮して
求めている。





さらには妊娠2ヶ月過ぎくらいから母体はセックスできない状態になり、
男性はオワズケ状態を食らう。





そして出産の喜びをかみ締めると同時に、
少しは自分も相手してもらえるターンが来たか、と思っているところに、
女性は、そもそも興味を失っている…




こうなったとき、かなりの男性は
自分の対処に悩み、何かしらの動きをしてしまうのではないだろうか。



性欲は食欲と睡眠欲と同じくらいの欲求なので、
我慢という意志だけで耐えられるのは限度があるだろう。















ところで、
PLAYBOYと言う世界的なメーカーがある。
そしてこのブランドの象徴はウサギさんだ。




なんでウサギさんなのかというと、
動物の中で発情期が無い、数少ない種族だからだ。




発情期が無いということは換言すれば、
年中セックスをしたい・できる、ということだ。





人間だって発情期は年中だ。
生きている限りは、子どもを生もうとも子育てをしていようとも
発情してセックスをしたいというのは、人間として当たり前のことだ。




じゃあ、この日本という結婚した相手以外とは(一応)セックスしていけない、という
法の下で暮らしている日本人男性が浮気というか外で性欲を発散させようとするのはむしろ当たり前のことなのではないだろうか。




けれども、法律では妻以外とはシテはいけない。
悪いことだと分かっているけど、本能として性欲は埋め込まれている…





ここは、どうしても許してもらえないラインなのだろうか。




健全に健康的に家庭を守り、家庭のために働くために、




もし奥さんに拒否されてしまっているのなら、
(感情を完全に抜きにして)外部での行為を認めてあげてもいいのではないだろうか??











動物と違って人間の交尾=セックスは子孫を残すためだけのものではないはずだ。








ぬくもりを感じあったり、コミュニケーションだったり、
性欲の間違った使い方をしないような予防策だったり
(ストレスと一緒で、適切に処理していかないと間違った行為が現れかねない)存在を確かめあう、(広い意味での)愛情を確かめ合う意味だって含まれているはずだ。




誰かに受け容れてもらえているという、
存在の確認作業でもあるはずだ。






ということは、子孫が生まれた間柄との相手でも、
セックスは継続させたいと思うのが、
普通の成り行きといえるのではないだろうか。













その一方で、女性を子どもを世話してくれる母親という
役割でしか見なくなった夫のせいで、セックスレスになり、
女性として見られていない、女性の尊厳みたいなものを失ってしまって、
ヒドく落ち込んでしまう女性がいるのも、
残念なことにまた事実だ。







もしもセックスというか、男と女に戻れない関係になったとしても、
まずはお互いの状態、心境を話し合う事が求められるだろう。



日本では性の話はタブーとされるが
話し合うことで防げること、関係の安定化を図れる可能性が高くなるのでは
ないだろうか。





男女の繋がりはセックスがすべてではないにしても、
かなり上位の要素であるはずだから。



重要なことほど、触れて話し合うべきなのだ。





話し合ったからって状況が改善されるとは限らない。
ただ、それでも、気持ちや意見を刷り合わせるというのは
生きていくコミュニティが近いもの動詞であればあるほど
必要性が増していくような気がする。






















マザーズ

マザーズ

らしさ、の罪悪感

男性らしさ、女性らしさに縛られているとの同時に、
自覚していない部分で、無意識に「らしさ」を期待しているって
分かった。








夫が妻に求める女性らしさを妻が持っていないって、生活したり子育てを
しているうちに気づいてしまったとき、夫以上に、妻のほうが
落胆しているんだって。








女性は、求められているであろう女性らしさを自身が
持っていないって知った時に、女性らしさが足りない自分に
男性の考えでは到底及ばないほどの落胆を感じているのだろう。
社会からの女性に期待する女性らしさの重圧は男らしさの比じゃない。








男性なんか、収入が良かったり地位が高かったりリーダーシップが
あったりっていう、極端に言えば自分だけが
幸せになれる能力を磨いていけば、男性らしさにつながる。
けれども女性は違う。











優しく居なさい、愛嬌よくいなさい、男に負けてあげなさい、
良妻賢母でありなさい、っていう具合に、
自分の能力を伸ばしたり
自分の幸せを考えると、非難されたりする。
女性は奥ゆかしく居なさいってコトなのでしょう。






(自分を犠牲にして)誰かを幸せにするのが女性らしさでしょ?
とでも、言わんばかりに強制的に犠牲を払いなさいって言う雰囲気が
漂っている。












問題なのは、社会が勝手に期待している女性らしさを
持てない人が、なぜか罪悪感を感じてしまっているところ。
女性性としての役割はあるのかもしれないが、
女性らしさにまで、何で応えなきゃいけないのか、不思議で仕方ない